球史に残る巨人との日本シリーズ…“史上最高のサブマリン”阪急ブレーブス・山田久志氏が明かした王貞治氏に打たれたサヨナラ3ランHR裏話
昭和後期のプロ野球に偉大な足跡を残した偉大な選手たちの功績、伝説をアナウンサー界のレジェンド・德光和夫が引き出す『プロ野球レジェン堂』。記憶に残る名勝負や“知られざる裏話”、ライバル関係とON(王氏・長嶋氏)との関係など、昭和時代に「最強のスポーツコンテンツ」だった“あの頃のプロ野球”を、令和の今だからこそレジェンドたちに迫る! 【画像】名称・西本幸雄監督から監督室で言われた言葉 阪急ブレーブス(現・オリックスバファローズ)のエースとして活躍し、アンダースロー投手としては歴代最多の284勝をあげた山田久志氏。17年連続2けた勝利、12年連続開幕投手、3年連続MVP、最多勝3回など輝かしい足跡を残した史上最高のサブマリン投手に德光和夫が切り込んだ。 徳光: 山田久志さんをテレビで初めてご覧になった方は、どこか銀行の頭取だと思うのでは(笑)。 相変わらず、スリムですね。 山田: でも、やっぱり現役時代の後遺症が、膝や腰にいろいろ出てきましたね。 徳光: 顔色も大変いいじゃないですか。 山田: おかげさまで健康ですが、後期高齢者に入りました。 忘れてしまっていることがたくさんあると思いますけど、その辺はちょっとご勘弁を… 徳光: 大体70歳を過ぎますと1日に3つずつ思い出消えていきますからね(笑)。 山田: おっしゃるとおりでございます(笑)。
日本シリーズは夢舞台
山田: 王さん、長嶋さんとたくさん対戦してきたピッチャーっていると思うんですよ。でも、私どもパ・リーグの人間が対戦するのは日本シリーズだけなんですよ。 徳光: ということは、やっぱり日本シリーズにっていう気持ちが常にあったわけですか。 山田: プロ野球選手になったからには、やっぱり日本シリーズの舞台を経験したいですよね。それを私は何回か経験させてもらって。ましてや、あの巨人V9時代の真っただ中で対戦。考えてみりゃ幸せかも分かんないですね。
名将・西本幸雄監督の教え
昭和44年に阪急に入団した山田氏。入団1年目は7試合に登板して0勝1敗。2年目は開幕から6連敗するも、52試合に登板して10勝17敗、防御率3.19の成績で終えた。 山田: 52試合投げてますけど、これは先発もリリーフも、負け試合も勝ち試合も全部ですからね。 当時は1シーズン130試合だったんですけど、私は上がり(ベンチに入らない日)なしで、130試合全部ベンチ入りでした。だから、いつも投げる準備してました。完投して寮へ帰っても、ご飯食べてすぐ翌日の準備しなくちゃいけない、それが1年間続いたんですよ。 徳光: 10勝17敗だった2年目が一つの転機になったんですかね。 当時の阪急の監督は西本幸雄氏。大毎、阪急、近鉄で監督を務めリーグ優勝8回、通算1384勝。しかし日本一にはなれず“悲劇の名称”とも呼ばれた。 山田: 負けが込んでいるときに、西本さんに監督室に呼ばれたことがあったんです。 「そうそうたるプロ野球のピッチャーを見てみろ。彼らがどんなことをしているか分かるか。この世界、全ては準備だぞ。マウンドへ上がるためには、その前の日をどうやって過ごすかが勝負なんだ。仮に結果が悪く出たとしてもみんながどう思うか。『山田はようやってるな。それでも勝てない。残念やな。勝たしてやりたい』って思うんだ」って言うんですよ。 そういう選手がプロで長く生きていけるんですよね。 徳光: 若い時代にそういう名将の下にいたってことは良かったんですね。 山田: 私がプロ野球に入ったときの監督が西本さんであったっていうことは、プラスだったですね。かなり大きな財産になったと思いますね。
【関連記事】
- 【中編】阪急ブレーブスのレジェンド・山田久志氏が語ったアンダースロー誕生のきっかけ 独特の投球フォームと“伝家の宝刀”シンカーの秘密
- 【後編】「引退考えさせた清原和博氏の一発」“史上最高のサブマリン”山田久志氏が語るライバルたちとの対決 阪急入団はあわや幻に!?ドラフト秘話
- ドジャース・大谷翔平選手 監督「出場しない理由は無い」あすのワールドシリーズ第3戦出場を示唆
- 大谷翔平「50-50」達成ボール落札の台湾企業がコメント発表「歴史的瞬間を共有でき光栄」 日本や台湾で一般公開することを示唆
- 「カミソリシュート」を武器に巨人打線を翻弄した平松政次氏 大洋ホエールズのレジェンドが語る“巨人キラー”“長嶋キラー”になった理由