早咲き「あたみ桜」のルーツに明治維新とイタリア人の存在
静岡県熱海市の市の木になっている「あたみ桜」。毎年12月に開花し1月には満開になる早咲きの桜として親しまれている。すでに見頃は終わったが、この桜を熱海にもたらしたのはイタリア人らしい。どういう経緯があるのだろうか。今年も多くの観光客を楽しませたあたみ桜。その“ルーツ”を探った。
イタリア人がもたらした早咲きの桜
熱海市中心街にある古屋旅館。創業は江戸時代中期、文化3年(1806年)までさかのぼる熱海でもっとも歴史ある温泉旅館として知られている。その古屋旅館に「熱海桜の由来」と題した冊子がある。旅館主の内田勇次氏(故人)が記した文章を平成18年(2006年)に復刻したものだ。熱海植物友の会会長や全日本花いっぱい連盟副会長などの肩書きを有していた内田氏。冊子には、内田氏があたみ桜の増殖に尽力したことと合わせ、昭和47年に下田の御用邸にあたみ桜を献上したこと、昭和48年には伊勢神宮に奉納したことなどが記されている。 その「熱海桜の由来」の冒頭に、「明治の初年、熱海の富士屋旅館にイタリア人某が泊まり、その記念に桜、椰子、レモンの苗木を寄贈していきました」と書かれている。そして、「暮れの内から一輪、二輪と花をつけ、正月から二月の終りまで咲き誇るピンク色の見事な桜」と記されている。それはまさに、今日、熱海市街で咲くあたみ桜の様子だ。当時、多くの人が、富士屋旅館に寄贈された、その桜の接木を欲しがったが、富士屋旅館の館主は人に分けることをしなかったという。 しかし、館主の代がかわり、大正初め頃、木の根元から出てきた「ひこばえ」を内田氏が譲り受けることができ、内田氏が苦労して増殖した結果、あたみ桜として広く知られるようになったという。イタリア人がもたらした早咲きの桜が、あたみ桜として認知されるに至ったのは内田氏の功績が大きいわけだが、そもそも、そのイタリア人は誰で、桜をどこから持ってきたのか、詳しいことは内田氏の文章にも記されていない。