「あなたはオンリーワンです」 大月みやこが60年の歌手生活で嬉しかった有名人からの手紙
「騙された」と思った東京初日
東京五輪が開かれた1964年。4月に上京したが、東京は高速道路などの建設の真っ最中。まだ東海道新幹線も開通しておらず、特急で上京した。 上京してすぐ、キングレコードに挨拶に行ったが、折悪しく、社員旅行中。社にいた守衛さんが「2、3日は誰も来ませんよ」というばかり。 「母と一緒に、これは騙されたと思いましたね」 今でこそ笑い話だが、3日間連絡が取れず、すでにアパートまで借りていた。不安を抱えて上京した18歳になる直前の少女の心中はいかばかりか。 4月9日、改めて挨拶に訪れ、無事に担当者に会えてホッとしたのもつかの間。譜面を4曲分渡された。 すぐにレコーディング。「まだ木造のレコーディングスタジオでしたね。今のキングレコードの社員の方はご存じ ないんじゃないかしら」。このスタジオは、首都高速道路の開通で立ち退きとなり、大月がレコーディングした後に取り壊された。60年の歴史の重みを改めて感じる。 4曲分渡されたうちの1曲「母恋三味線」がデビューシングルとなり、6月20日に発売された。 「レコード店に自分のレコードが並んでいるのを見て。自分の歌がレコードになったと思うと、やはり嬉しかったですね」 歌手志望ではなかった少女がプロへの第一歩を踏み出した。
キングレコード芸能部所属で培った縁
デビュー年はシングル4枚、翌年は8枚、翌々年は9枚と、今では考えられないようなハイペースでシングル発売が続いた。 テレビへの露出は、当時、盛んに行われていたレコード会社制作の音楽番組が主で、キングレコード専属の歌手とともに出演していた。 「あとはスター歌手の全国巡業についていき、前歌を歌わせてもらいました。春日八郎さんや三橋美智也さん。スターの歌を生で聴けるのが一番嬉しかった」 春日や三橋はそれぞれのプロダクションに所属し、キングレコードからレコードを発売していたが、大月の場合は「プロダクションには入っていなくて、キングレコードの芸能部所属だったんです」。 だから毎日のようにキングレコードに行っていた。春日や三橋のほか、ザ・ピーナッツやペギー葉山、梓みちよら、同社専属の歌手らに「みやこちゃん」と声を掛けられ、かわいがられた。 林伊佐緒は「催し物に行くときは、それがどういう催し物なのか、内容を知ったり、空気を感じたりすることが大切だよ。歌手だからといってただ歌うだけじゃなく、一人の人間としてね」とプロとしての心構えを教えてくれた。その教えは今も大切に守り続けている。ペギー葉山のことは「お姉さん」と慕い、「日本の女性としてのたおやかさ、温かさ、やさしさ、美しさを教えてもらいました」と懐かしむ。 キングレコード芸能部所属といっても、大月に自席があるわけではなかった。 「だから毎日会社で廊下に立っていて。来た人に挨拶するんです」 挨拶する人の中には、ディレクターたちに曲を売り込みにくる人の姿も多かった。その際、大月にディレクターから声がかかる。 「ちょっとこれ歌ってみて」 歌謡学院で基礎からみっちり叩き込まれたことがここで生きた。譜面を初見で歌えるため、大月に何度も声がかかった。 「じゃ、大月でレコーディングするか」 こうして発売となったシングルは数多。ハイペースのシングル発売が続いた裏には、こうした背景もあったのだ。