春風亭一之輔、一番記憶に残る「新生活」は… 師匠に入門したころ“畳敷きの倉庫”に住んでいた
落語家・春風亭一之輔さんが連載中のコラム「ああ、それ私よく知ってます。」。今回のお題は「新生活」。 自分の「新生活」の一番記憶に残る節目といえば、師匠に入門し噺家修業が始まったころだろう。 2001年 4月27日に春風亭一朝に入門志願し、5月1日から弟子となった。挨拶のために上京した両親に「じゃ、お預かりします」と師匠は軽く告げ、「明日からおいで」と私に言った。トントン拍子である。 5月2日から師匠の家に通うことになった。 学生のときは、月3万3000円の6畳・風呂無しのアパートに住んでいたが、噺家になると収入もなくなるので線路の向こうの月2万円の6畳・風呂無し・トイレ共同のアパートに引っ越ししておいた。「高野荘」という古めかしい名前だ。 一階は大家さん一家が住んでいる。玄関は大家さんと共同で、階段を上がると二階に6部屋もあっただろうか。日の当たらない、引き戸に自分で南京錠をつけなきゃならない、「畳敷きの倉庫」みたいな部屋だった。 東京に越してきて、通算三つ目の「城」が一番安普請。そこから毎日師匠の家に通う。 電車を使うと片道330円かかる。どう考えてもキツい。初日は絶対遅刻出来ないので、電車で行った。 「おはようございます」。緊張の面持ちで師匠の前で正座すると「足崩していいよ」と言う。「正座だと、ズボンの膝のとこが傷んで薄くなるだろう。芸人なんだから気を使わなきゃダメだ。だから俺の前でもあぐらでいいよ」 どこもそんなもんかなぁ、と思ったがあとで聞いたらそんな一門はなかなからしい。大したズボンじゃないのにあぐらをかかせてもらったが、落ち着かないことこの上ない。
師匠は「暴れん坊将軍」の再放送を観ていた。仕方がないので一緒に観る。「この人、こないだ死んじゃったよな?」「そうですね」「お茶淹れようか?」「いえいえ!」「いーからいーから」と師匠が淹れてくれた。「これ食べな」と饅頭が出てきた。 俺は客か。 「じゃそろそろ、行くか」と支度を始める師匠。 「これ持ってついといで」と着物の入ったカバンを渡された。 「はい」と師匠が切符を買ってくれた。道中、いろいろ話をしてくれたが、緊張で頭に入らない。「メモしときなよ。今日会った人みんな忘れるなよ。なんかしてもらったり、ご馳走になったりしたら次会ったときは必ずお礼を言うんだよ」 「先ほどはお饅頭ご馳走様です」「次会ったときな。俺とお前はさっきからずーっと会ってる」 浅草演芸ホールに着いた。五月上席。ゴールデンウィークは寄席のかきいれ時だ。師匠は昼の12:30上がりだ。どなたかとの日替わり交互出演だった。そしてかなり浅い上がり時間。掛け持ちもなく一軒のみ。50歳のときのうちの師匠はそんなかんじだったのだ。 楽屋に行くといるわいるわ前座さんが5、6人。真打、二つ目、色物さん、お囃子さん、寄席の従業員……。初めての寄席の楽屋はとても居心地が悪かった。師匠は「邪魔にならないとこにいなさい」と言うのだが、どこにいても邪魔になる。 師匠が一席終え着替えた。「じゃお先にー」と言って楽屋を出る師匠の後を急いでついていくと「そばでも食うか」と師匠が行きつけのそば屋に入った。