「『栃木のために』という文化が定着したら変わると思う」セルジオ越後氏が語る日光アイスバックス
栃木県日光市にホームを置き、アジアリーグアイスホッケーに所属するアイスホッケーチーム「H.C.栃木日光アイスバックス」(以下、アイスバックス)は今シーズン、チーム創立25周年の節目を迎えた。 【写真】H.C.栃木日光アイスバックス藤澤悌史ヘッドコーチ チームは4シーズン目の指揮を執る藤澤悌史監督の元、9月に開幕した2024-2025シーズンで熱い戦いを繰り広げている。ここでは2006年からアイスバックス シニアディレクターを務め、長年チームを見続けているセルジオ越後氏に、改めて思いを聞いた。(3回連載・2回目) ◆スポーツも割り勘文化に ―チーム運営についての考えを聞かせてください。 「日本は飲みに行くときは『割り勘』なのに、スポーツになると『みんなから集める』という文化がないのね。親からもらって使う、企業が親でチームが子ども。だから親がお金を出せなくなったら、チームの運営も辞めようって廃部になっちゃう。でもどっちが強いかって言ったら割り勘の方が強いのよ。1,000人が1万円出したら1,000万円なんだから。1,000万円をひとつの企業から引っ張ろうとしたら大変。でも2,000人集めたら5,000円でいいし、それが1万人になったら1000円でよくなる。昔から日光では1世帯で500円出している、旧日光市だけだから集まるのは100万円くらいだけど、『我がチーム』っていう意識になる。人間って無料だと興味持たないのよ。プログラムも無料だとゴミ箱に捨てていくけれど100円で買ったら持って帰るんだよね。無料だと価値がなくなるよね」 ―チーム運営には『我がチーム』という意識が必要なのですね。 「そう、これまでの企業チームはサービスしすぎてきたのよ、利益を上げなくて良い組織だったから。アイスバックスも西武もみんなそうだったし、クレインズもそうだった。結局、親会社がお金を出せなくなったときに、クラブ化できなくなっちゃう。僕らが今やってるのは割り勘に近いんだよ。ある程度大きな金額を出してくれている企業も、5万円とか10万円とか、みんな平等なのよ。天井から下がっているフラッグとフェンス広告の値段は違うから、200社ぐらい集まる、高額だけでは集まらないんだよ。だから、みんなのチーム」 ―複数スポンサーの支えがあって、安定した運営につながるのですね。 「1つの企業でチームを持たなくても、一体感が持てる。そういうところからアイスバックスは少しずつ立て直されてきたけど、他チームで困るとやっぱり大口を探しに行っちゃうのよ。例えば釧路はアイスホッケーの文化があるんだし、市民を動かしたらできたと思うのよ。日光より人口多いんだし。それでも大口に期待したら衝突してチームが無くなった。結局、1企業がチームを持つという文化が深く根付いてるのね、日本には。大口の企業は近道だけど、1回痛い目に合ってもまだ分からないのかと思うよ、こんなに近くにお手本があるのに。僕らが成功例としてアイスホッケー界では参考になってるかもしれないけれど、もっとスポーツ界全体に波及すべきだと思うよ。スポンサーはパートナー、でも日本は1スポンサーが全部抱えるから、そこを止めたら全部無くっちゃう」 ―アイスバックスは日光がホームとなります。同じ栃木県内のスポーツチームとの関係性について、どのように感じておられますか。 「結局争っちゃうからなかなか難しいね。『栃木のために』という文化が定着したら変わると思うんだけどね。行政も協力しやすいしスポンサーもつきやすい。今もイベントでのコラボはしてるけれど、試合のスケジュールを合わせたりはしないから、結局はお客さんを奪い合うだけで関係は薄いよね」 ―他競技との共存の難しさは、どのような部分にあるのですか? 「例えばアメリカだとアイスホッケーとバスケットは同じ会場で氷を張ってやるから片方がホーム戦なら一方はアウェー戦なんだよね。地域のプロスポーツとして両方が同じ設備を使っているけれど、日本では全部別々につくるでしょ。僕らはチームに栃木って名前つけているし栃木県のためにやるんだよね。日本では学校のため、企業のため、国のためっていう文化はあるけれど、地域のためっていう文化は少ないと思う。例えば五輪だと日本の勝利に向かって熱烈に応援するけれど、国体になると興味がなくなっちゃう。国体は地域のアイデンティティをつくるためにあるのだから、地元の五輪だけど、みんな全然興味がないし、どこでやってるかすら分からないでしょ。栃木県民が栃木のためにっていう文化が育っていないなと感じるね」 ―チームがホームを置く土地の文化になることが大事なのですね。 「たまたま僕は外から来て広告塔になれたけど、最初はね、何を企んでるんだろうって思われてたよね。サッカーなのに何しに来たんだって。当時お金がなくて、無償でずっとやったのが大きかったね。そこまでやるなら応援しなくちゃって。もし給料をもらっていたらそれが狙いじゃないかってなっていたと思う。あとは日光にマンションを借りたのも、やる気になってるんだって思ってもらえたかな。だから今はもう誰も『何で?』って聞かないよね、『アイスホッケーも頑張ってよ』って」 (後編につづく) <プロフィール> セルジオ越後(せるじお・えちご) 1945年7月28日生(79歳)ブラジル・サンパウロ出身 ブラジル・サンパウロで生まれ育ち、同国の名門クラブであるコリンチャンスなどでプレー。1972年に来日し、藤和不動産サッカー部(現:湘南ベルマーレ)に所属、日本サッカーリーグ(JSL)初の元プロ選手として活躍した。 引退後、JSL1部の永大産業のコーチを務める。1978年より「さわやかサッカー教室」の認定指導員として全国各地を回り、25年間で1000回以上実施、50万人以上の少年少女を指導した。 ブラジル仕込みの卓越したボールテクニックを披露することで少年少女に刺激を与え、受講者から、後にJリーグ選手や日本代表選手になった者は枚挙にいとまがない。全国各地でサッカーの種をまき、その後の日本サッカーの発展に大きく貢献した。また、日本サッカー協会の強化委員(現、技術委員)としても活躍。 現在はサッカー解説者として、サッカーの楽しみ方や魅力を伝えるほか、厳しい視点で問題点を追求するなど辛口のコメンテーターとしても知られている。また、プロアイスホッケークラブのH.C.栃木日光アイスバックスや日本アンプティサッカー協会などの役員を務めるなどスポーツの振興にも尽力している。 2006年文部科学省生涯スポーツ功労者表彰、2013年外務大臣表彰、2017年旭日双光章を受賞。2023年公益財団法人 日本サッカー協会「第19回日本サッカー殿堂」に掲額。
アスリートマガジン編集部