【2024 MotoGP】開幕直前!「LCR Honda MotoGP Team」とは?二輪と情熱的に関わるオーナー、ルーチョ・チッキネロ氏に注目だ!
自らがGPに参戦するために作ったチーム
少しでもレースに興味を持った方ならば、MotoGPでLCRの名前を聞いたことがあるだろう。 チーム・LCRはMotoGPにおいてホンダのサテライトチームとして活動しており、MotoGPクラス唯一の日本人ライダーである中上貴晶が在席していることも周知のとおり。しかし、ワークスチームのレプソル・ホンダ・チームの陰に隠れてしまうこともあり、その活動が一般ライダーに広く知られているとは言い難い。 今回は2023年日本グランプリでお会いしたチーム・LCRのメンバーを通して、彼らのチーム活動を紹介しよう。 【画像ギャラリー 27枚】【2024 MotoGP】開幕直前!「LCR Honda MotoGP Team」とは?二輪と情熱的に関わるオーナー、ルーチョ・チッキネロ氏に注目だ!……の写真を見る! チーム・LCRを語るならば、まずチーム代表のルーチョ・チッキネロのストーリーから始めなければならない。 彼はイタリアの元GPライダーであり、1996年に彼自身がGP125ccクラスを戦うために作ったのがLCRのルーツ。しかし、彼がGPライダーとなる以前の、ゼロからスタートした物語があるのだ。 1969年生まれのルーチョ・チッキネロは、13~14歳でモペット(ペダル付き50ccバイク)に乗りはじめた。そしてメカニズムに触れ、チューニングのまねごとをはじめる。 16歳になるとレースに出てみたいと思い立ち、両親に打ち明けると大反対を受けたが、高校生になり「全てを自分で行い、親の援助は受けない」という条件でレースの世界に踏み出した。「あの時は親から1ドルすらもらえなかったよ!」と笑顔で語る。 最初はメカニックなども行いながら国内の市販車クラスのレースに参戦。18歳後半からのレースデビューは周囲に比べても遅い経歴だったという。 1988年に初のレースに参戦して努力を重ね、徐々に成績を出せるようになっていった。1989年からはイタリア国内選手権に参戦し初優勝を含む年間ランキング10位に続き、翌年の同クラスのランキングは2位となる。 1991年からはヨーロッパ選手権にステップアップし、初年度ランキング10位、翌年はランキング2位となった。彼はイタリア国内とヨーロッパ選手権どちらも、ランキング10位→2位となったリザルトに「ユニークな記録だよね!」とにっこり笑う。 そして遂に1993年からGP125ccクラスにデビューする。レースの世界に飛び込んでから僅か5年後24歳のときである。 しかし1994年もGP125ccクラスに参戦するも大きな結果は残せなかった。すると彼は1995年に、ヨーロッパ選手権に戻るのである。そこで1995年のヨーロッパチャンピオンを勝ち取る!これを弾みに1996年には再びGP125ccクラス参戦、しかもライダー兼チームオーナーとして自身のチーム・LCRを立ち上げてのチャレンジだった。 彼はこの経緯を次のように語る。「レースは自分一人ではできないんだ。周囲の人が大切ということが身に染みていた。それで自分でチームを作りたいと思い、いちどヨーロッパ選手権に戻った。1996年は自分の人生の中でもターニングポイントだったね……」 1998年には日本人ライダーの上田昇がチーム・LCRに加わり、2台体制で参戦。そして遂にルーチョ・チッキネロはこの年の第6戦ハラマGP125ccで初優勝を飾る。その後は2001年、2002年とGP125cc年間ランキング4位を記録し、2003年に現役ライダーを引退する。GPでの戦歴は、149レース中、ポールポジション4回と優勝7回を含む19回の3位以内表彰台というもの。 「ライダーとチーム運営を同時に行うのはとても厳しい仕事、ライダーとしてレースの世界に残ることは困難だったが、それまでの経験を生かしたマネージャーならば続けられると考えたよ……」と語り、2004年からはチーム運営に専念する形でグランプリ界に身を置くこととなった。 チームは2002年から250ccクラスにも参戦していたが、2005年から250ccクラスだけに参戦した後、2006年には250ccクラスからステップアップを果たすケーシー・ストーナと共に、ついにホンダRC211Vを走らせる最高峰MotoGPのチームへと飛躍した。ルーチョ・チッキネロは、レースの世界に足を踏み出してから18年後の37歳で、MotoGPクラスのチームオーナーに名を連ねたのである。 その後の活動はここでは略すが、それから18年後の現在もMotoGPクラスでもホンダとパートナーを継続しつつ活動している。これはルーチョ・チッキネロのライダーとしての活動期間を大きく超えて続けている年数にあたるのだ。