「毒をもって毒を制す」元対立組織の極左・松崎明との「蜜月」...敵を取り込んだ日本の改革者・葛西敬之の「本当の」狙い
過激派組織さえ味方につけて
のちに葛西は松崎と敵対するようになるが、国鉄改革ではがっちりと手を結んだ。 国鉄改革の大きな流れ、それが地域分割であり、国労潰しなのは、くどく言を重ねるまでもない。国鉄再建監理委員会が立ちあがった83年5月、葛西は経営計画室から職員局に異動になり、職員課長に就いた。葛西と入れ代わるように、職員局の松田が経営計画室に移る。それ以来、葛西は職員課長として労使問題の最前線に立つことになる。そこで、動労委員長の松崎との共闘という驚くべき手段に出るのである。先の元国鉄職員局幹部はこうも指摘した。 「ひょっとすると、これは葛西が労務に疎かったからこそ思いついた発想かもしれません。労務に詳しい井手だと、革マルという過激な組織を内部に抱える動労の松崎と組むなんて考えは、思いもつかない。職員局にいた松田もそうでしょう。しかし、葛西はこんな大胆な戦略を立てた。それは、葛西の後ろに戦中関東軍参謀を務め、戦後はソ連のスパイ容疑までかけられてきた瀬島龍三がいたからではないでしょうか」 瀬島と同じく、松崎についてもまた、多くの説明はいらないだろう。1936(昭和11)年2月3日、埼玉県比企郡高坂村(現東松山市高坂)で精米業を営む父登喜治と母タネのあいだの6人きょうだいの末子として生まれた。 日本陸軍の青年将校たちが昭和維新を謳いクーデターを企てる少し前のことだ。日本の世相は混沌としていた。父の登喜治は高坂商工会会長を務める地元の名士であったが、暮らし向きは決して楽ではなかった。
「鬼」と呼ばれたカリスマ
松崎が9歳の頃、日本は終戦を迎える。松崎は高坂国民学校4年生だった。ひと回り以上年が上の長兄暁は、陸軍に志願して日中戦争のさなかに結核にかかり、終戦を待たずに陸軍病院で死亡していた。父の登喜治も終戦の年に病死し、松崎家は困窮を極めた。 松崎は54年3月に川越工業高校を卒業したのち、55年3月から千葉県の国鉄松戸電車区に臨時採用された。すでに高校時代から日本共産党の下部組織である日本民主青年同盟(民青)で活動していた。この年、正式に共産党に入党し、国鉄で「臨時雇用員のための組合創設」を目指して活動を始める。 松崎は57年に革マル派の最高指導者だった黒田寛一と出会い、58年に革命的共産主義者同盟に加入した。63年、黒田の腹心として革マル派結成時に副議長を務めた。松崎は革マル派時代の組織名を倉川篤といった。国鉄時代の動労は、最大労組の国労に組合員数こそ遠くおよばない。が、先鋭的な革マル派の活動家を幹部組合員として抱えてきたその情報収集能力や過激な活動は国鉄内で知らぬ者がなく、企業経営者たちは恐れおののいてきた。 松崎は動労でカリスマとして知られてきた。国労と組んで国鉄首脳陣を屈服させたマル生運動では、「鬼の動労」と呼ばれるほどの力を見せつけた。この松崎と葛西の関係について、元職員局幹部は次のように説明してくれた。 「葛西は国鉄改革で国労を潰すために動労を利用した。いわば毒をもって毒を制そうとしたわけです。しかし、ことはそう単純にはいかない。本当は国労と動労どちらも潰さなきゃいけなかった。ところがそれをやりきるには、いかに葛西が剛腕だとはいえ、労働問題についてずぶの素人だからできない。それで松崎の寝技にだまされちゃったわけです」 『「常に眉に唾をつけていました」狡猾に擦り寄る「革マル」とたった一人の男の「国鉄民営化前夜」の争い』へ続く
森 功(ジャーナリスト)