“アイヌ民族”への差別 戦地でも…北海道から満州へ出征した若者に入隊初日から上官が罵倒「日本語が分かるか」―強制収容所を生き抜いた父の年譜
学校の試験で満点「アイヌのお前に満点なんか取れるわけがない」
寛さんは70歳になると、地域の広報誌にも体験談を寄せます。1990年には「わたしの生い立ち」と題し寄稿しました。 「差別されない日はなかった」と記し、1936年に、獣医になろうと転校した空知農業学校、今の岩見沢農業高校での出来事をつづっています。いわれのない疑いでした。 清孝さんが二風谷の実家で広報誌を見せてくれました。 「そこに行ってたときに頑張って満点を取った。でも、アイヌのお前に満点なんか取れるわけない。誰かのカンニングしたんだろと言われたそうです」(清孝さん)
“赤紙”届き出征 満州でも差別…「熊の肉はないが豚の肉はある」
寛さんは胸を患い休学。二風谷に戻ります。そのとき、召集令状、いわゆる「赤紙」が届きます。今から83年前、寛さんが20歳のときでした。当時の日本は国家総動員体制。寛さんも”お国のために”と出征しました。 「天皇陛下のために、頑張るんだ俺は。みたいな感じだったんじゃないでしょうか。(父も)これで俺も”日本人”になるのかな、そういうのはあったんじゃないですか」「あのときの親父、アイヌの人たちは、みんなそうなんじゃないですか」 寛さんは1941年1月、二風谷を出発。大阪から約2000人がすし詰めになった船で海を渡り、満州へ。馬車を使った輸送部隊に入りました。 そこで待ち受けていたのは、また「差別」。入隊当日、200人の新兵が並ぶ中、一人、前に立たされ、上官に罵倒されます。 「日本語分かるか?」「文字読めるか?」「生肉、食ってたんだろう。熊の肉はないが、豚の肉はある」 まるで見せ物扱いでした。「俺は野獣か!」と広報誌に当時の怒りを書き残しています。 「やっぱり軍に来ても差別はあるんだなって、がっかりしたということでしょうね」(清孝さん)
50日間荒野さまよい旧ソ連軍に捕まる…4000キロ超 カザフスタンの収容所へ
年譜には寛さんが軍曹になったことも記されています。二等兵から5階級の昇進でした。 ただ日本軍は敗れ、寛さんは約50日間、満州の荒野をさまよい旧ソ連軍につかまります。 旧ソ連軍の戦車の地響きを聞いたとき、「もう殺される」と降伏したそうです。 行きついたのは、約4100キロ離れた、今のカザフスタンの強制収容所でした。 寛さんは清孝さんに当時の凄惨な状況を語っていました。 「引き揚げ列車がやられた。何人死亡し、何人生きて帰れたのか。捕虜は筆舌に尽くせない苦労の連続。これはラーゲリ(収容所)の話なんですよ」
「戦争や差別で苦労したよ」父が残した言葉の重み
その後、さまざまな施設を転々。得意の馬の世話で、旧ソ連軍に気に入られ、生き残りました。 帰国は終戦から3年後の12月でした。 「戦争や差別で苦労したよと、よく言っていました。やっぱりアイヌだった私が、これだけの思いをしたんだよって自分で作って家族に渡すぐらいですから」 自らの苦労を年譜という形で家族に託した寛さん。伝えたかったのは差別と戦争のむごたらしさでした。 82歳で亡くなってから20年あまり。その遺志は今も、清孝さんの胸に刻まれています。
UHB 北海道文化放送
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