<東照大権現>ついに神となった家康。死後対応について天海らへ指示していた内容とは…大坂の陣後、大きな合戦はなんと250年ほども途絶えることに
松本潤さん演じる徳川家康が天下統一を成し遂げるまでの道のりを、古沢良太さんの脚本で巧みに描いてきたNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)もいよいよ12月17日の放送で最終回を迎えます。一方、静岡大学名誉教授の本多隆成さんが、徳川家康の運命を左右した「決断」に迫るのが本連載。連載最終回のテーマは「神になった家康」です。 【図】家康と秀忠の二元的政治の仕組みがこちら * * * * * * * ◆大坂落城後 大坂落城後に、家康は諸大名や代官らに命じて、大坂方の残党の捜索を、全国にわたってきびしく行なわせた。秀頼には側室との間に二人の子があったが、千姫の嘆願にもかかわらず、八歳の男子国松は五月二十三日に京都六条河原で斬首された。七歳の女子(天秀尼)は命を助けられ、鎌倉の東慶寺に入った。 閏六月十三日にはいわゆる「一国一城令」が出され、居城のみを残し、それ以外の城はすべて破却するように命じた。 ただし、これは法令として公布されたものではなく、毛利・島津・黒田など、主として西国の諸大名に対し、酒井忠世・土井利勝・安藤重信という江戸奉行衆三名の連署奉書によって個別に通達されたのであった。 ところが、奉書が与えられず、口頭でも指示されていない大名も、幕府の意向を忖度し、城の破却を行なったとみられる。実際にも、数日の間におよそ四〇〇ほどの城が破却されたといわれている。
◆徳川公儀の確立 ところで、秀頼が死去したことで豊臣公儀は完全に消滅し、徳川公儀はいっさいの障害もなく確立した。その確立を象徴的に示したのが、七月に出された一連の「法度」、すなわち武家諸法度、禁中並公家中諸法度、諸宗諸本山諸法度であった。 とくに前二者の制定にあたっては、家康は金地院崇伝や林羅山らに命じて和漢の書物を集め、諸家の古記録を書写するなどの準備を進め、そのうえでいずれも崇伝が起草したのであった。 武家諸法度は全一三ヵ条で、七月七日に能見物のために伏見城に集まった諸大名に対し、将軍秀忠の名前で公布され、崇伝がこれを読み上げて申し渡した。 禁中並公家中諸法度は全一七ヵ条であり、慶長二十年(一六一五)七月付で、大御所家康、将軍秀忠、および関白への復帰が決まっていた二条昭実の連署で十七日に制定された。秀忠が伏見城から家康がいる二条城にやってきて、ここに公家衆を参集させ、両武家伝奏のうち広橋兼勝が読み上げて申し渡した。 諸宗諸本山諸法度は元和元年(一六一五)七月付で、家康の朱印状によって各宗派の本山宛に出された。 こうして、豊臣氏を滅亡させた直後に、武家、天皇・公家、寺院に対する諸法度の制定を行なうことにより、徳川公儀の確立を明確に示すものともなった。
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