「若き副長をかばった?」あいまいな証言の理由は~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#32
司令と副長の大きな年齢差
一方で、1967年に面接調査に応じている佐賀県在住の元二等兵曹(一審は死刑、再審で重労働20年)は、 「この裁判で、弁護団が何か井上副長の弁護に、特に力を入れていたように、被告間に言われていたが、これは井上副長がもともと兵学校でも非常な秀才で、戦後、確か慶応義塾大学に入学しており、処刑命令者の井上司令とは大佐と大尉の大きな階級差や年齢差もあり、副長まで殺すのは惜しい人物であり、その必要もないと考えられたであろうことは、至極もっともなことであり、副長の家族も弁護団と密接に連絡していたことから、弁護団も当然そのような気持ちをもっていたと思う」 と述べている。
井上司令について副長が遺書に残したこと
井上司令が、若い副長をかばって、副長に責任が及ばないように命令系統をあいまいにしたという指摘もある中で、当人の井上勝太郎はどのように思っていたのか。戦犯たちの遺稿を集めて、1953年に出版された「世紀の遺書」に収録された井上勝太郎の遺書に、井上司令に対する記述があった。 <「世紀の遺書」より> 「四月六日(木)この室は三十号室だ。二十九号室に司令がいる。三十一号幕田。三十二号田口。三十三号榎本。三十四号藤中、三十五号成迫。この配列は考えてみると興味深いものだ。即ち、この中に二人の老人(頭の禿げた)がいる。(注・井上司令と榎本中尉)ところで、その老人達は一人で冥土へ行くのは厭だと言い張って、各々若者達をお供に従えた。若者と言うのは、この中、四人までは未婚で裁判当時は皆、五人とも二十歳台であったのだ。死刑囚棟二年の生活で二人は三十歳台になったけれども」 「昨夜、司令が連れ出される時『どうも拙い事になって申し訳ない』と言った。私は今更責めようとは思わない。ただ、呵責と悔恨の重荷を負いつつゆくより、有り得ざる決定に死んでゆく事は、考え様によっては、つまらぬ馬鹿々々しい事ではあるが、同時に不思議に気が軽い事である。昔から冤罪や自己の主義主張の為に死んでゆく人々の従容たり得し理由も分る」