「清原ジュニア」はプロ入りなるか 大スターの2世選手が歩んだ“茨の道” 長嶋一茂は「シーズン50本」を期待され、「通算18本」で現役を退いた
「ミスタージャイアンツ」の長男
1987年のドラフトの目玉となったのが、“ミスタージャイアンツ”長嶋茂雄氏の長男で、立教大の4番・長嶋一茂である。 父と同じ三塁を守り、4年時には主将。春の慶応大戦で鈴木哲(元西武など)から開幕戦アーチを放ち、5月5日の明大戦でも、延長13回に武田一浩(元日本ハムなど)から左中間にサヨナラ打を放った。 この日、別の取材で神宮到着が遅れた筆者は、入口前に到着直後、ワーッという大歓声が聞こえ、しばらくして関係者通用口から目を真っ赤にした武田、ややあって満面に笑みをたたえた長嶋が出てきたシーンを鮮明に覚えている。 秋のリーグ戦で、父の通算8本塁打超えがかかった試合を取材したときは、通常1人のカメラマンが3人も動員された(最終的に通算11本塁打)。スーパースターの息子という話題性だけでなく、大学ナンバーワン内野手であり、父同様に華のある選手でもあった。 ドラフトを前に本人は「在京セ(巨人、ヤクルト、大洋)と西武」を“逆指名”したが、投手の補強を重視した巨人は直前回避し、ヤクルトと大洋が1位で競合。抽選ではヤクルト・相馬和夫球団社長の“黄金の左腕”がモノを言った。 「うれしい。それっきゃないでしょ。お世話になりたいという気持ちです」と意中の球団の指名を喜んだ長嶋だったが、「シーズン50本塁打を打つ潜在能力がある」と球団関係者に期待されながら、プロでは実働7年、通算打率.210、18本塁打と“未完の大器”で終わった。
阪神移籍は「親ばかトレード」と報じられた
阪急・浜崎真二・勝、巨人・長嶋茂雄・一茂に次いで、史上3人目の「同一球団で父が監督、息子が選手」という“父子鷹”を実現させたのが、1995年のヤクルト3位・野村克則だ。 明治大2年秋に首位打者を獲得した際に、筆者は取材の機会を得たが、当時ヤクルト監督だった父・野村克也を「つかみどころがなくて、何を考えているかわからない人」と評していたことを覚えている。父からは常日頃「手抜きをするな。とにかく一生懸命やれ」と言われていたという。 取材の数日後、母・沙知代さんがオーナーを務める少年野球チーム・港東ムースの全国4連覇の祝賀会会場で再会すると、知人との雑談を中断して「先日はありがとうございました」と挨拶に来てくれたことも印象深い。 3年春に「プロを目指しているのなら」という別府隆彦監督の勧めで一塁手から父と同じ捕手に転向。4年秋のリーグ戦で、六大学史上初の女性投手、ジョディ・ハーラーのリーグ戦初登板が実現した東大戦で、後方に上がった難しい飛球にも、「絶対アウトにする」とばかりに、あきらめず飛びついていた姿も記憶に残っている。 自著「プロ失格 父と子、それは監督と選手だった」(日本文芸社)によれば、「お前じゃ無理だ。苦労するのは目に見えている」とプロ入りに反対する父に、野村は「プロに憧れて野球を始めたんだから、たとえプロに行って失敗したとしても後悔はしない」と自らの意志を貫いたという。 ヤクルト、阪神、巨人、楽天の4球団を渡り歩き、阪神移籍を「親ばかトレード」と報じられたり、2世選手ならではの悲哀も体験。右肩故障もあり、選手としては大成できなかったが、阪神時代の01年に2度サヨナラ打を放つなど、11年間にわたってプレーした。通算成績は実働8年で、打率.185、4本塁打だった。
久保田龍雄(くぼた・たつお) 1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。 デイリー新潮編集部
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