誤字脱字の氾濫。事実関係を無視したデマの垂れ流し。衆参議院議院運営委員会理事会では法案に134カ所ものミスまで…「校正」の不在がもたらすもの
校正者曰く「面白い原稿は要注意」
「校正をしようと思う人であれば、誰にでもできる仕事でございます」 実に丁寧な口調で山﨑良子さんは語った。彼女は大学(文学部)卒業後、3年間病院で秘書をつとめた後に出版社に転職。その7年後に校正者になったそうで、25年以上のキャリアを持つベテランである。 彼女は3年前に私の原稿を校正しており、「その節はお世話になりました」と御礼を述べると、驚いたような顔をして「こちらこそ、ありがとうございました」と深々と御辞儀をした。旧漢字の扱いをめぐる当時のやりとりも正確に記憶されており、それを回想する言葉遣いまで校正済みのようだった。 ──誰にでもできることではありません。 私は力強く否定した。以前、私は他人の原稿を校正しようとしたことがある。しかし俺様感覚が強いせいか、いきなり冒頭からつまずき、全体を構成し直したい衝動に駆られた。間違いをチェックするというより、全体が間違いに思えたわけで、そうなると校正にならないのである。 「基本は照合なんです」 静かに解説する山﨑さん。そもそも「校正」の「校」は訓読みすると「くらべる」。「校正」とは「写本または印刷物などを原稿や原本とくらべ、誤りを正す」(前出『講談社 新大字典(普及版)』)こと。 元の原稿とゲラ(校正刷り)を照らし合わせる。あるいは引用の原文とゲラを照らし合わせる。さらには辞書・事典類、資料などと意味や事実関係を照合するのだ。 「原文は必ずコピーをとって、それをゲラ刷りと並べて突き合わせるんです。照合することを『突き合わせ』と言いますが、それは本当にモノとして突き合わせるんです。そして文章を人差し指で押さえながら読んでいきます。原文のほうで、例えば『……であったマル(。)』。ゲラ刷りのほうで『……であったマル(。)』とか」 ──声に出すんですか? 「いいえ、シンナイです」 ──シンナイ? 「心内。心の内です」 心の中に音声を残し、それと照合するのである。山﨑さんは造作ないことのように説明するのだが、実際にやってみると難しい。私などは途中で読み違えてしまう。なるべく直したくないと思うせいか、間違っているのに心内で勝手に直してしまうのである。 そもそも別々にあるものを同一だと確認するのは、そこに共通するものを見出すということであり、それは同時にそれ以外の細かな差異を無視するということでもある。校正とは差異の中から有意な差異を選別するという離れ業なのだ。 「300ページほどの小説であれば、5日間で仕上げます」 さらりと語る山﨑さん。 ──それは早いですね。 私が感心すると、彼女は微笑む。 「約束の日までに必ず終わらせる。そう決めることで必死にやるんです」 ──原稿の中には面白いものと、そうでないものがあると思うんですが……。 恐るおそる切り出すと、彼女は遮るように言った。 「面白い原稿は要注意です」 ──そうなんですか? 「面白いから読んじゃうんです。『てにをは』が乱れていても、つい読んでしまう。誤りを拾い損ねてしまうんですね。もう一回読み返して、実はわかりにくい文章であることに気がついたりするんです」 誤りは「拾う」ものなのである。ちなみに「誤り」の「あや」は「霊(あや)」と同根であり、「あやまり」とは霊の「異常な状態」(白川静著『新訂 字訓[普及版]』平凡社 2007年)を意味するらしい。 「誤」という文字も、巫女(みこ)が神を楽しませる行為を表わしているそうで、「そのようなエクスタシーの状態において発する語には、誤謬(ごびゅう)のことが多い」(同前)とのこと。エクスタシーは誤りのもと。本を読んで感動することも一種の「誤り」なわけで、校正者は楽しんではいけないのである。 文/髙橋秀実 サムネイル/Shutterstock.