成功の確率わずか1% 幕府も公認「敵討」は、大ヒットかわら版の鉄板ネタ
みんな大好き「敵討番付」
心中と違って、幕府も庶民も、共に評価した敵討。だから、かわら版屋は、どんどん敵討の刷り物を作り、販売した。もし役人に見つかっても、敵討に関するものであれば、それほど罰せられないだろうと、想定してのことに違いない。 敵討にどれほど庶民の関心が向けられていたかということは、次に掲載する敵討の「見立番付(みたてばんづけ)」からもわかるはずである。
見立番付とは、相撲の番付の形式を借用して作成した「テーマ毎のランキング」で、江戸時代から明治にかけて、大変人気の高かった刷り物である。販売方法や内容などから見て、かわら版の一種ととらえても問題ない。 この見立番付において選択されるテーマは、買い手である庶民が特別に興味を持っているものに限定されていた。そんな中で、敵討(仇討)は、繰り返し取り上げられたのである。ここに掲載している「忠孝仇討鏡」も、その中の一つだ。 「忠孝仇討鏡」で特に評価されているのは、曽我兄弟仇討(父親の敵討)や山崎敵討(秀吉が光秀を討ったもので、主君の敵討)、そして赤穂義士仇討(主君の敵討)、伊賀上野仇討(父親の敵討)などである。よく「天下三大仇討」と称されるのは、曽我兄弟仇討、赤穂義士仇討、伊賀上野仇討で、このうち、後の二つは江戸時代に起きている。 どの敵討が、「評価すべき敵討」なのか。江戸時代の庶民は、そんなことを語り合うほどに、敵討に興味があった。その理由は、敵討が「道徳的に良いもの」であると考えていただけではなく、「達成するのが極めて困難な行為」だとも、よく知っていたからである。史料などから考えると、敵討の達成率は、間違いなく1パーセント以下だった。 敵討をするためには、まずは、広い日本の中で、敵を見付けなければならず、それに加えて、敵と戦って勝つための、十分な戦力を獲得しなければならない。 現在と違い、情報通信が未発達の江戸時代(あるいはそれ以前)、広い日本で敵を発見することは、容易ではなかった。そして、実際に発見しても、相手が剣の達人であったり、多人数で復讐に備えていたりすることもあり、対決して勝利するのは、相当に難しいことだった。 だから、敵討を行いたい者は、長い年月(場合によっては何十年も)、日本中を歩き回ることが多かったのである。また、幼少の者や剣の腕が未熟な者は、有名な道場で苦しい修業に何年も耐えた後、ようやく敵討の旅に出ることも多かった。さらには、同じく人生の貴重な時間を割いて協力をしてくれる、助太刀を探すこともあった。 以上でわかるだろう。敵討とは、必然的に、山あり谷ありのストーリーを秘めたものとなるのである。敵討の達成者は、その厳しいストーリーを、とりあえずのハッピーエンドで締めるのに成功したことになる。だから庶民は、そのリアルなストーリーを、娯楽としても楽しんだのである。 確かに、実際に読んでみると、敵討の話は相当に面白い。それは、多くの敵討の中に、我々の想像を超えるような背景や、ストーリーを持つものがあるからである。次回は、それらを取り上げたかわら版を、幾つか紹介したいと思う。 (大阪学院大学 経済学部 准教授 森田健司)