高橋大輔に長光歌子が伝えた「日本人として恥ずかしくないマナー」 アジア初の偉業を回顧
フィギュアスケート・長光歌子インタビュー第2回(全4回) 50年以上にわたってフィギュアスケート界で指導者を続けてきた長光歌子コーチ。数多くのトップスケーターたちを輩出しているが、なかでも高橋大輔とは二人三脚で、華々しく男子フィギュアの歴史を変えた。インタビュー第2回は、高橋とともに「歴史を変えた日」に迫る。2010年バンクーバー五輪、アジア人選手初のメダルに手が届いた理由とは......。 【写真】高橋大輔と長光歌子コーチの軌跡...世界選手権・GPファイナル優勝、五輪メダル獲得「初」の偉業たち 【先人たちをリスペクトする心】 ーー高橋さんは2度のシングルでの現役生活、アイスダンス転身、さらに意欲的なプロスケーターとしての取り組みなど、フィギュアスケート界のパイオニアとして活躍し続けています。その彼に"教えたこと"とは何でしょうか? 長光歌子(以下同) 大輔に教えたのは、"日本人として恥ずかしくないマナー"ですかね。それとフィギュアスケートは点数競技だから、人がジャッジをして点数をつけて結果が出ます。自分ひとりではないってことで......。 ーー過去の日本人スケーターたちが少しずつ世界を切り拓いてきた、ということでしょうか? たとえば、佐藤信夫先生は世界選手権で4位(1964-1965シーズン)になっておられる。その時、メダリストのひとりに言われたそうです。「君が日本人じゃなかったら、表彰台に乗れていたのにね」って。日本は(第2次世界大戦の)敗戦国で、当時、「アジア人選手を表彰台には乗せられない」っていう時代だったのでしょうね。戦前も含めて、日本人は少しずつ、「日本のブランド」をつくり上げてきたんです。 私自身、信夫先生がユニバーシアード優勝とか聞いて興奮していました。そのあと、佐野稔先生が(1976-1977シーズン)世界選手権でメダルをとって、(2002年ソルトレイクシティ五輪で)本田(武史)君が4位になって。そうした時代の流れがあって、大輔がバンクーバー五輪でメダルがとれました。 先人のおかげで、ジャパンのジャージで滑っていたら、ジャッジも高い評価を前提に見てくれるようになったんです。だから、「時代をつくり上げてくれた人々のことをリスペクトしなさい」っていうのは大輔に伝えました。戦前に活躍したレジェンドスケーター、稲田悦子さん(※12歳で1936年のガルミッシュパルテンキルヘン五輪に出場)が「いつか女子はメダルをとれるやろうけど、男子は無理やな」と言っていたほどだったのが、変わってきたわけで。