「目の黒い内は話すな」文豪・永井荷風の「実子」にまつわるミステリー 元記者が本執筆「人間的側面に光」
作家永井荷風(1879~1959年)と2番目の妻で舞踊家の初代藤蔭静樹(1880~1966年)に焦点をあて、2人の間に生まれた子どもの存在を追いかけた本「荷風 静樹 愛と離別」を、元共同通信社編集局長のジャーナリスト江畑忠彦さん(78)=東京都=が執筆した。静樹の遺族で、荷風の子と指摘された人物の長女、3代藤蔭静樹の佐土市子さん(73)=京都市中京区=は、「亡くなるまでつながりを語ることがなかった父を思うと、こんなにうれしいことはない」と話している。 【写真】永井荷風の子と指摘された人物の長女はこちら 江畑さんは2015年、旅行で新潟市の「にいがた文化の記憶館」を訪れた際、以前から関心を抱いていた永井荷風の妻静樹の名を見つけた。「時々、遺族が訪れる」と学芸員から聞いたとき、「子どもを持つことを嫌った荷風に、実子がいたのかもしれない」とひらめいた。遺族で静樹の名を継ぐ舞踊家の佐土さんと連絡をとって、取材を始めた。 佐土さんの父内田芳夫さんは、戸籍上は静樹の実弟の子となっている。出生日や両親、親戚の言動などから、静樹が実の母と知り、出征する際も会うためにわざわざ上京している。頻繁に手紙をやりとりするなど親しく交流し、葬儀では喪主を務めた。 荷風の死が報じられたとき、内田さんは椅子から立ち上がれないほど衝撃を受けていたという。生前、家族に「自分の目の黒い内は荷風のことを話してはならない」と語っており、「息子と名乗る機会が永遠に奪われ、とどめることができない口惜しさと寂しさがこみ上げてきたのでは」と江畑さんは推察する。 本では、荷風の生きざまはもちろん、静樹の生涯についても詳述した。新潟の花街・古町のお茶屋「庄内屋」の名妓・佐藤しんの養女になり、教養を身につけ芸事に励み、新橋芸者・八重次としてひとり立ちし、1910(明治43)年、荷風と出会う。その後、荷風は、父親の強い勧めで最初の妻と見合い結婚したが、半年たたないうちに父親が亡くなって離婚。14年、静樹と荷風は結婚した。 ところが翌15年、静樹は「女房は下女と同じでよい。『どれい』である」などとつづった置き手紙を残して家を出た。江畑さんは「家出の理由は荷風の放蕩(ほうとう)、外出癖」と記す。その後、2人は復縁するが、荷風の放蕩癖はやまず、別離して静樹は舞踊の道に生き、1960年文化功労者に選ばれた。 江畑さんは「記者としての経験から、実子ミステリーはニュースだ、と思い資料を集め取材を重ねた。文豪永井荷風の知られざる、新たな人間的側面に光が当てられたなら、うれしい」と話している。ミーツ出版刊、2750円。