主砲を挑発「高い年俸を貰う必要ない」 Bクラス脱却へ…西武新監督がもたらした劇薬
松沼博久氏は肩の不安を広岡監督に報告…フォーム変更の助言に心酔した
“知将”から勝つ野球を教わった。弟の雅之氏と一緒にプロ入りし、「兄やん」の愛称で親しまれた野球評論家の松沼博久氏は、アンダースローの先発として西武一筋で通算112勝をマークした。「こうやって勝つんだな、と思いました」。西武ライオンズが初めてリーグ優勝、そして一気に日本一にまで突っ走った1982年を回想した。 【写真】西武左腕の“彼女”が「美人すぎ」 恋人繋ぎで登場に大注目「可愛い」 来たる新シーズンに向けてスタートを切った自主トレ。入団1年目から先発ローテーションの一角を担ってきたプロ4年目の松沼氏は、体調に違和感を抱いていた。「肩の状態が悪かったんです。キャッチボールでも、なかなか相手に届かないぐらいに」。この年から西武は広岡達朗氏が監督として就任。1978年にヤクルトを初のリーグ優勝、日本シリーズ制覇に導いた“知将”だ。 当時の自主トレは球団主導。松沼氏は新監督に「すいません、投げられません」と正直に報告した。すると「お兄ちゃんの投げ方は肩が痛くなる。変えなきゃ駄目だよ」と身振り手振り付きで助言してきた。テークバックの際に右腕がやや一塁方向まで入っていたのだが、無理なく引き上げる形へ。しばらく、試してみた。「この投げ方をスムーズに出していくと肩が痛くない。考えられないぐら良いボールがいくんです。本当に。『そうか、この投げ方にしてみようかな』と。そこから、ピッチングフォームを変えました」。 監督は西武に加入したばかり。にも関わらず、的確なアドバイスを授かった。「何か資料を持っていて、僕の投げ方も研究してたのでしょう。『広岡さんは俺のことをちゃんと見てくれているんだな』と感じました」。いきなりハートをがっちり掴まれた。新しい指揮官は内野手出身なのだが、「真似がもの凄く上手いんですよ。キャッチボールだけだったら僕よりずっといい球を放ってました。『シャーッて投げればいいんだ、シャーッて』と表現されてましたね」。 自主トレ、キャンプともチームの練習メニューが前年から激変した。「200メートル100本とかそんなレベルのランニングが始まったんですよ。みんな『そんなの、あり?』って驚きました。クタクタですよね。これまでの体をほぐすウオーミングアップが、体を鍛えるトレーニングになりました」。 鍛えるのは体力、技術だけではなかった。キャンプの過ごし方も一変した。「広岡さんが監督になられてからは、毎晩ミーティングなんですよ。夕方まで練習して、夕食が終わってから30分ぐらいしたらミーティング。その後は夜間練習が待っている。一日中野球をやっている感じ。投手は夜はネットスローを延々とする。かなり疲れるんだけど、僕は教わったいい投げ方をしているせいか、肩、肘が適度に張るぐらいでしたね」。