【写真特集】ハンセン病隔離と継承された「生」
「見えなくなること」を強制する社会が奪い、覆い隠してきたハンセン病回復者と家族の「生(せい)」。写真家・小原一真が静かに描く、語られなかった過去と現在
沖縄県北部、羽地内海(はねじないかい)に浮かぶ屋我地島(やがじしま)の北端に国立療養所沖縄愛楽園がある。1938年の園創設から現在まで、延べ3917人のハンセン病患者が暮らした施設で、現在は80人余りの回復者が暮らす。ここで生きる人々やその家族たちの「生(せい)」は、感染症そのものが持つ影響力をはるかに超えた世界の歴史のうねりの中で、引き継がれてきた。 写真家・小原一真が記録するハンセン病隔離と「生きた証し」 琉球諸島では、20世紀初めまで多くのハンセン病患者が集落周辺にある墓や、隔離小屋と呼ばれる劣悪な環境での生活を余儀なくされた。ハンセン病は発病する力が弱い慢性の感染症で、末梢神経が菌に侵され、治療が遅れると手足・顔などの麻痺症状や重篤な身体障がいが起きることがある。遺伝性疾患や前世の悪行の報いである「業病」だとする古くからの誤った認識により、患者は差別・迫害の対象となってきた。 また、欧米の植民地で多く確認されたことから、明治の開国後は、日本政府がその存在を国の恥である「国辱病」として、路上にいる患者たちの療養所への強制収容を始めた。さらに、世界的に広がりを見せた優生思想と2つの世界大戦は「強く健康な人的資本」を求めていく。1920年代以降の日本では住民の恐怖心を利用して、官民一体となって各県で患者の摘発を競い、患者たちへの差別・迫害はエスカレートした。 私は、まず患者たちが30年代に住んだ無人島を訪れ、彼らの軌跡を追った。当時、沖縄ではハンセン病療養所建設の反対運動が激しさを増し、患者たちの住居を周辺住民が焼き打ちする事件が起きた。患者たちは生き延びるために闇夜に紛れて島に向かって舟をこいだ。水も食料も医療施設もない島内の鬱蒼と生い茂る木々の中に逃れ、文字どおり社会から見えない存在となることで、自分たちの命を守らねばならなかった。半年間の無人島生活の後に患者自らが購入した土地に療養所の前身となる施設を建設し、ようやく自分たちの居場所を手に入れた。しかし、直後に県はその隣接地域に患者たちの強制収容先を造り、彼らの居場所も収容先の一部となっていく。 子供から高齢者までが、突然家族やコミュニティーから切り離され、隔離施設へと送られた。治療薬は40年代にアメリカで開発されたが、患者の終生隔離を可能とする法律「らい予防法」は96年まで続いた。無人島生活の時代から来年で90年。近年まで続いた隔離政策は、コミュニティーの内と外に大きな溝をつくったまま、今でも多くの回復者とその家族が自身を語ることを困難にしている。「見えなくなること」を強制する社会は、患者が奪われたものだけでなく、彼らの大切な人、守ろうとしてきたもの全てを覆い隠し、言葉を奪い続けている。 私は、回復者と家族たちが隔離下で守ろうとしたものについての言葉を拾い集めた。それらが、どのように現代に引き継がれているのかの一端を、彼らが許してくれる限りの形で記録に残した。「世間」が見えづらくしている人々の存在について少しでも想像し、自覚的になり、お互いが守りたいものを尊重するための伝え方を模索しながら。 小原一真(写真家) 撮影:小原一真 1985年岩手県生まれ。大阪府在住の写真家、ジャーナリスト。ロンドン芸術大学フォトジャーナリズム修士課程修了。ウクライナのチェルノブイリ原発事故、太平洋戦争、東日本大震災と原発事故など、災禍の中で見えなくなっていく個をテーマにした作品が、国際的な写真賞を受賞し高い評価を受けている https://www.kazumaobara.com/ 【連載20周年】 Newsweek日本版 写真で世界を伝える「Picture Power」 2024年9月3日号 掲載 Photographs by Kazuma Obara
小原一真