女優・秋吉久美子が“家庭内キャリアウーマン”の母から受け継いだ品性。離婚時にその母が記者へ放った一言に娘も「さすがだと…」
金髪のクラスメイト
秋吉: 下重さんのお母さまはどんなかたでしたか。 下重: 母は新潟県の高田という、海に面してはいませんが、日本海に近い町で生まれ育っています。当時でいう地主の娘で経済的に豊かでしたが、なにしろ冬になると雪が3メートルも4メートルも積もって2階から出入りするほどの豪雪地帯です。 そのおかげで辛抱づよい性格になったのでしょう。すでにお話ししたとおり、大変な子煩悩で“暁子命”という感じだった。愛情を通り越して執着に近かったかもしれません。私も私で、小学校3年生くらいまでは思い出すと恥ずかしくなるくらいのいい子、優等生でした。 先ほど、秋吉さんのお母さまが髪をすいてくれたエピソードを聞きながら、私は自分の母親に腹を立てていたんですけれど──大阪・天満橋の近くの大手前高校という進学校に通っていた頃、同級生にすごくユニークな女の子がいたんです。髪の毛を金髪に染めているの。 秋吉: 金髪姿とは、当時では珍しかったでしょうね。 下重: とても珍しかった。しかも、ブリーチではなく、ビールで着色していたというのよ。 秋吉: ビールは髪の毛に栄養がありそうです。 下重: 本当にビールを使っていたのかどうかはわからないけれど、とにかくとっても個性的な子で周囲からも目立っていて、私は一方的に好意をもっていました。子どもながら、彼女の内面には光るものが感じられたんです。ところがね……うちの母が、友だちの母親と立ち話をしているのが偶然耳に入った。 「あの子、いろんな噂を聞きますから、あまり親しくなさらないほうがいいですよ」 そんな話をしているのよ。しかも、「素行が悪いらしいから」とかいう理由じゃなくて、出身地がどうの、家柄がどうの、というようなニュアンスでいっている。私、本当に頭にきましたね。人権問題に発展する発言じゃないですか。 秋吉: それで憤慨なさった。
母の一言でますます反抗的に
下重: 自分の母親がそういう発言をしたことが本当に嫌だったし、許せなかった。この出来事は、私をますます反抗的な娘にしたと思います。 秋吉: そのあと、お母さまとは話し合ったんですか。 下重: もちろん話しましたよ。怒りながら。母は「お母さんが悪かった」といって、ひたすら謝り続けていましたが、彼女の考え自体が変わったわけではないと感じました。その場は収まっても、人間の本質なんてそうそう変わるものではありません。だから、秋吉さんのお母さまの話を聞いて、「ああ、いいなあ」と思ったのよ。 秋吉: ありがとうございます。でもね──うちの母の性質は私に“祟って”いるところがあるような気もするんです。 下重: 祟る? 秋吉: どこか無防備というか、すぐに心をオープンにして、誰でも受け入れてしまう。 下重: それは美点じゃないのかしら。 秋吉: うちの父は死の間際に「久美子、処世術……処世術が大事」と虫の息でいいました。臨終の言葉です。これって私のことを不器用だと思っていたわけですよね。下重さんもそうだと思いますが、接する相手によって態度を変えるとか、相手を選んで付き合うとかいうことは頭にないでしょう? 下重: うん。そういう打算みたいなことは苦手だし、したくない。 秋吉: 父は父なりに心配してくれていたんだろうな……と。巷ではテクニカルな生き方をしている人のほうが多数派ですし、そのほうが生きやすいはずですから。父も心のピュアな人でしたが、公務員を長くやっていましたから、彼なりに「処世術」なるものの研鑽は積んでいたのだと思うんです。 下重: 私も巨大組織で働いていましたから、よくわかりますよ。 秋吉: ある時、瀬戸内寂聴さんからお手紙をいただいたことがあって、それをふとした会話のなかで父に伝えたら、「おまえ、瀬戸内さんのような立派なかたから可愛がられているのか」と上機嫌になっちゃった。 普段から「新潮」とか「中央公論」を購読していたのもあったでしょうが、ミーハーだったし、名前とか肩書きに弱いタイプ。ずっと自信がもてない人だったのかもしれません。一方、自覚があったかどうかはわからないけれど、母は揺るぎない自信と誇りをもっていましたね。 下重: 概して、男性よりも女性のほうがどっしり構えていますね。 秋吉久美子 1954年生まれ。1972年、映画『旅の重さ』でデビュー後、『赤ちょうちん』『異人たちとの夏』『深い河』など出演作多数。早稲田大学政治経済学術院公共経営研究科修了。 下重暁子 1936年生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、NHKにアナウンサーとして入局。民放キャスターを経て文筆業に。著書に『家族という病』『極上の孤独』など多数。
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