森本慎太郎の“不器用さ”は匠の域に 『街並み照らすヤツら』は愚かさを肯定する人間讃歌
“正義”は危うい。人間は人生の窮地に立たされると、犯罪行為であっても「これは正義だ」と自分を正当化してしまう。『街並み照らすヤツら』(日本テレビ系)は、そんな人間の愚かさをコミカルに描いてきた。 【写真】最終話でケーキ作りをする正義(森本慎太郎) 正義(森本慎太郎)は、自分の店を守るためという大義名分のもと偽装強盗を始め、犯罪だと理解しながらも、虹色ロード商店街のメンバーに流されるまま、偽装強盗を繰り返してきた。正義以外の登場人物たちにも、自分だけの正義がある。正義とともに、偽装強盗を繰り返していた荒木(浜野謙太)は、自分が憧れるヒーローになりたいからと行動し、酒屋の娘・莉菜(月島琉衣)や莉菜の父・龍一(皆川猿時)は、保険金を手に入れて梨菜の大学進学費用を工面するために動いていた。それぞれが自分の欲望のために、自身の行動を正当化している。 商店街メンバーだけでなく、再開発をもくろむ大村親子も同じだ。彼らは開発をすることが商店街を良くすると信じている。スパイや弁護士に金を握らせて暗躍していたとしても、商店街を盛り上げるためなら仕方がないと思い込んでいるのだ。 本作が特徴的なのは、正義の危うさという重たいテーマを、これでもかというほど軽やかに描いてきたことだ。魅力的なキャラクターたちによる軽妙な会話劇と登場人物の心情を補完する冷静なナレーションにより、これを可能にしてきた。 信じられないほど楽観的な商店街メンバーたちはもちろん、はじめはまともそうに見えた警察の日下部(宇野翔平)や澤本(吉川愛)、大村親子のスパイであったトミヤマ(森下能幸)にも人間の愚かさが反映されたおかしみがあった。それぞれの人物に表と裏があり、自分の信じる正義を信じて揺れ動いている。人物たちが不器用すぎて、主人公の味方であろうと、敵であろうとなぜか憎めないのだ。そんなキャラクターたちの噛み合っているようで、噛み合っていない緩いテンポの会話劇が本作の最大の魅力と言える。 そして、自分の願望を通すために時に嘘をつき、知らないフリをする登場人物たちの心情を補完する冷静なナレーションも本作の大事な要素の一つ。本来、映像作品のナレーションは主人公の心情のみを説明していく場合が多いが、『街並み照らすヤツら』ではほとんど全員の心情がナレーションにより補完されていた。ナレーションによる客観的な目線があることで、人間の本音と建前が鮮やかにあぶり出され、登場人物たちの自分本意な振る舞いが際立つのだ。明るいキャラクターたちと会話劇、それを客観的に見守るナレーションが噛み合うことで、恐ろしいことをしているのに恐ろしく見えないという不思議な感覚を生み出していた。 欲望や嫉妬、プライド、見栄。そういった生きていくうえで逃れられない負の感情に振り回されている人間を描いてきた本作。愛らしく憎めない人物たちが紡いできたストーリーからは、人間のマイナスな側面をそのまま見せようという意図を感じる。人間の有りのままを肯定的に描いてきた内容は「人間讃歌」と呼んでもいいだろう。 そしてその中心にいる主人公・正義は、最も人のために行動していると信じている人物だ。逆に言えば、作中で一番自分の信じるものの危うさに気づいていない。そんな役を真摯な表情と台詞回しが特徴の森本慎太郎が演じたことで、作品のテーマがより分かりやすくなっていた。『だが、情熱はある』(日本テレビ系)で、不器用に自分と向き合う山里役で高い評価を受けた彼だからこそ、任された役と言えるだろう。 ドラマは人物が気づきを得て変化し、成長していくのがセオリーだ。だが、これだけ未熟で自分勝手な人間たちを描いてきた作品だからこそ、最後までそれぞれが好きなように生きて、愚かなままでいてほしいと願ってしまう。
古澤椋子