孤独死は「かわいそう」ではない!自らの足で生き続けた証というケースも、私たちは最期の一人旅をどう過ごすか
孤独死は、ことさらにその悲劇性が強調される。多くの場合、周囲に誰もいない淋しい最期として報道され、現代社会の闇のように扱われる。 大原麗子、山口美江、梓みちよ、宍戸錠、野村克也ら多くの著名人が家族から看取られることなく、亡くなった。この人たちは、全盛期は、いつもその人を中心に人だかりができたような華やかな存在だったから、ひとりで旅立ったと聞けば、おのずとそこに哀れさのにおいをかぎとりたくなる。 ただ、忘れてはいけない。孤独死することができる人は、死の直前まで自立していた人だけという事実である。 2000年に世界保健機関(WHO)は、「健康寿命」という概念を提唱している。健康寿命とは、「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」を意味し、寿命と健康寿命の差は、健康を失って日常生活に制限が生じている期間を意味する。健康寿命と寿命とがほぼ一致していることが望ましい人生であることは、言うまでもない。 その観点から孤独死を考えてみれば、健康寿命をすでに終えて、お迎えを待っている人が、孤独死できるはずがない。トイレや入浴などの日常生活を介護者に頼る人は、そもそも一人暮らしができない。当然、孤独死など不可能である。オムツを代えてもらったり、食事を口まで運んでもらったりして、人に頼りつつ晩年を過ごして、最期の時を迎えるのであろう。 対照的に、一人で死ぬことができた人は、寿命と健康寿命の差がほとんどなかったことを意味する。この人たちは、誇らしい、独立自存の生涯を送れたことを、その逝き方をもって証明している。 もちろん、家族・親族との不和があったのではないか、年とともに気難しくなって、誰も寄り付かなかったのではないかなど、いくらでも詮索は可能である。しかし、生涯を自分らしく過ごし、死の直前まで誰の手も借りずに、自分の足で人生の歩みを続けてきたということを忘れてはならない。