〈東日本大震災から13年〉「(牛のことは)もう話すな。俺も悲しくなっから」原発事故で牛を殺処分…時が止まったままの酪農家。妻は震災体験を伝える紙芝居を上演し、山田洋次監督も見学に
13年前の東日本大震災の原発事故により、飼っていた牛の殺処分を余儀なくされ、事実上の廃業状態となった福島県浪江町の酪農家・石井隆広さん(75)。すっかり気力を失ってしまうも、再び家族で一緒に暮らすため、福島市に一軒家を購入した。しかし……。 【画像】〈13年前から時が止まったまま〉帰還困難区域内にあり、現在は閉校となった福島県浪江町立津島小学校
避難先でも“よそ者”として見られ…
かつては妻・絹江さん(72)と隆広さんの両親、さらに長男夫婦と孫ふたりの8人で幸せな家庭を築いていた。それが脆くも崩れ去ったのは2011年3月11日。 震災で一家はちりぢりとなったが、その約2年半後、新しい家で再び家族と一緒に暮らしたいと、隆広さんは福島市内の一軒家を購入した。 「ここは、広い庭が気に入ってね」 筆者もお邪魔した約70坪の邸宅で、隆広さんは窓の外を見ながらそう呟いた。購入当時で築30年ほど経っていたものの、広々とした庭にガレージまでついていた。ガレージには隆広さんの趣味である自慢の愛車、日産GTRのタイプMスペックニュルという珍しい車も保管できた。 月に1度、愛車をていねいに洗い、エンジンの調子をチェックするときは隆広さんにとって至福の時間。この地で石井家の新たな家族の物語が再び築き上げられていくかのように思えた。 だが――。新たな暮らしは隆広さん一家にとって、思いのほか窮屈なものだった。 「車のエンジンをかけたら近隣からうるさいと怒鳴られ、チェーンソーで庭の草刈りをしていたら、やはり騒音で文句を言われたこともあります」(絹江さん) 隣の家が遠くにあるのどかな浪江町とは違い、住宅が密集している現在の住まいでは物音や騒音に気を遣う生活を強いられるのは、ある程度は仕方のないことだろう。しかし、一部の近隣住民からは、浪江町から避難してきた“よそ者”として見られている節があった。 4、5年ほど前から、隆広さんに自治会の会長をやってほしいという話が持ち上がっている。だが、そもそも隆広さんの住民票は浪江町に置いたまま。つまり福島市民ではない。一時的な住居でしかないのだ。 これまで組長や副班長といった小さな集まりの役職を引き受けたこともある。だが、ここに来たくて浪江町を離れたわけではない石井さん一家にとって、やはり自治会の会長というのは重荷だろう。
【関連記事】
- 【前編】〈東日本大震災から13年〉福島県浪江町の酪農家一家は今。別の街に行けば「放射能が来た」と陰口を言われたことも
- 〈写真で振り返る東日本大震災〉「牛、殺してから行くっぺ」福島県浪江町の酪農家夫婦の決断
- 【東日本大震災と災害関連死】死者、行方不明者の20%を占める「災害関連死」をゼロにするために必要なこと
- <能登・被災地の火葬場はいま…>「復旧の見通しが立たず、ご遺体はドライアイスで…」受け入れを再開した火葬場も「炉内の損傷もあって、通常どおりの進行はなかなか厳しい」
- 「寒ブリ漁はもうだめですわ」船が壊された漁師町…「12月に建てたばかりの娘夫婦の新居も全壊で、俺、泣きました」〈ルポ能登半島地震・珠洲市〉