呪物コレクター・田中俊行「道を外れてしまった僕と呪物は似ているかもしれない」
その家に足を踏み入れた瞬間、不気味な視線を一身に受けた。着物姿の少女の人形、こけし、くすんだ仏像のようなもの、部族のお祭りで使われるような目が大きなお面……。棚に隙間なく並べられた品々は、ドアを開けた人間をじっと見ていた。 【インタビュー写真】田中俊行「もっと呪物たちが働いてくれたら広い家に住めるんですけど」 一見すると骨董品のようにも見えるが、そうではない。この部屋に飾られているものは、特別な魂が込められた「呪物」だ。日本だけではなく、タイやベトナムなどの儀式のために産み出された呪物もある。この部屋では、足音のような物音がすることも珍しくない。目に見えない何かがひしめき合っている空間だ。 この家の主は、怪談師であり、呪物コレクターの田中俊行さん。呪物たちに埋め尽くされた空間、その奥に続く部屋で暮らしている。風呂なしトイレ共同の6畳2間。昭和の下宿がタイムスリップしてきたような趣のあるアパートの角部屋だ。怪談師・呪物蒐集家の田中俊行さんにニュースクランチがインタビューを敢行した。 ◇チャーミーはラッキーガールなんですよ 田中俊行さんは、もともと神戸の実家で怪談師をしながらマイペースに暮らしていた。しかし、2021年に42歳で上京し、人生で初めて一人暮らしを始める。そのきっかけは、田中さんがチャーミーと名づけた呪いの人形だ。 ちょんと突き出したアヒル口に大きい目。保育園に通う子どもが抱いていそうな女の子の赤ちゃん人形が、チャーミーだ。パッと見ただけでは、カワイイという感想しか思い浮かばない。しかし、強力な力を持った呪物だ。チャーミーを可愛がった5人が亡くなっている。 そんなチャーミーを、なぜラッキーガールと呼ぶのか。それは、チャーミーとの出会いにより、彼の人生が一変したからだ。 呪物コレクターとしてメディアに引っ張りだこの田中さん。TBS系列で放映されている『クレイジージャーニー』にも出演。数々のYouTubeチャンネルに呼ばれ、100万回再生を超えた動画もある。 これらの活躍は、チャーミー抜きには語れない。詳細は後述するが、田中さんが呪物コレクターを始めたのは、チャーミーとの出会いがきっかけだ。また、上京したのもチャーミー由来。チャーミーとの出会いが呪物コレクターの礎を築いている。 上京してから、田中さんの呪物の収集速度は加速した。これまでに集めた呪物は150体以上。費やした金額は……海外への渡航費を含めると700万円以上にものぼるそうだ。 なぜ、不幸を引き寄せそうな呪物を集め、一緒に暮らせているのだろうか。その原点は呪物コレクターになるまでの道のりにあった。 ◇中学時代の交通事故で人生が一変した 真っ白な服を着たおばあさんが、暗い部屋で何かを唱えている。1978年に兵庫県・神戸に生まれた田中さんの幼い頃の記憶には、実家を訪れていた霊媒師の姿が残っている。目に見えないものを信じていた母親が、よく家に呼んでいたそうだ。道場のような場所に連れて行かれた記憶もある。霊的なものに触れる機会の多い幼少期を過ごした。 「おかんから週刊誌の心霊特集を見せられているうちに、自然とそういうものが好きになりました。当時、レンタルビデオも流行っていて。そのなかでも、稲川淳二さんの怪談と『ナイト・オブ・ザ・リビングデット』という映画が大好きでした」 ただ、ホラーコンテンツを楽しむのは家でのみ。学校では活発な少年として、リーダーシップを発揮。習い事も多かった。水泳・剣道・少年野球とスポーツに打ち込み、学習塾や画塾にも通う。なんでも受け入れる性格で、陽と陰の幅広い趣向を持つようになった。 しかし、中学2年生のときに「陽」の部分がすっぽりと抜け落ちる。大きな交通事故に遭ってしまったのだ。 田中さんが目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。 友人と自転車のレースをして遊んでいるときに、赤信号で国道に飛び出したあと、車にはねられたらしい。ベッドの隣で泣いている女性は誰かわからない。記憶を失った状態が約1週間も続いた。記憶が戻ったあとも、横にいる母親は沈痛な表情を浮かべたまま。1か月ほど経つと、松葉杖をつきながらリハビリに励むようになった。 そんなある日、若い主治医から診察室に呼ばれた。 母親と診察室に入ると、机の上にはMRIの写真が何枚か広がっているのが見えた。医者は、タイミングを見計らったあと、重大なことを軽い口調で告げてきた。 「息子さんの脳細胞はめっちゃ死にました」 母親は泣き出した。あわてた医者がフォローする。 「お母さん、大丈夫です。ちょっとだけは戻ります」 母の涙は止まらない。医者の言葉は慰めにならなかった。その様子を田中さんはボーッと眺めていた。 事故の影響は大きく、性格が一変してしまった。事故に遭う前は野球部に所属しており、ポジションは2番セカンド。チームプレイを大切にして、届かないボールにも飛び込むほど必死に部活に取り組んでいた。しかし、それらに興味がなくなってしまった。 「顧問がチームワークをもって頑張ろうと言うんですよ。それはウソやな、と思うようになりました。友達と会いたいので部室には行きます。でも練習には出ません。事故に遭ってからは、いろんな感情がなくなりました。悲しさも感じなくなりました」 田中さんに残った好きなものは、怪談と絵を描くこと。それ以外への興味は極端に薄くなった。 勉強も同じだ。学習塾には通うが意欲は湧かない。そこそこだった学力はどん底へ。このまま高校に進まなくていいと思ったが、両親と教師に「高校にいかないと生きていけないぞ!」と怒涛の勢いで説得されたため、その言葉を受け入れて進学を決意する。