「他の誰かのものになる前に」男でもギャンブルでもなく…10年間で10億円を横領した女性の“貢ぎ先”とは 著者は語る 『私の馬』(川村元気 著)
すぐに返せばいい――。造船所の事務員として働く瀬戸口優子は、ひとりで経理を務める組合の金に、いま手をつけようとしている。罪だとはわかっている。でも、「彼」のために、450万円、月々の預託料20万円が必要だ。彼が他の誰かのものになる前に。あの時、国道の真ん中に佇み、漆黒の瞳で優子を見つめていた彼、ストラーダのために。〈見つけた。/私が思うより少し先に、馬からそう語りかけられた気がした〉 【写真】この記事の写真を見る(2枚) 川村元気さんの『私の馬』は、10年間で10億円もの会社の組合の金を横領し、男でもギャンブルでもなく、馬に注ぎ込んだ女性の事件から着想を得た小説である。 「まるで喜劇のような事件が気になりました。横領事件と自分の生活実感が繋がれば、物語となる予感もあって。当時、2020年は、僕の周りで犬や猫を飼う人が急激に増えたんです。コロナ禍で人との直接の接触は減る一方、スマホの中にはトイレの落書きのような罵詈雑言が溢れていた。史上最も多くの言葉を費やして互いを傷つけあう時代に、みんな疲れ、言葉を必要としない動物とのコミュニケーションに惹かれているのではないか。馬に10億円を貢いだ女性の気持ちに繋がった気がしました。それで馬の取材を始めたんです」 〈私がそちらに曲がろうと思うよりも“少し先に”彼は左に曲がった〉。優子はストラーダと通じ合う悦びにのめり込んでいく。「これは僕の実体験。馬が僕のことを理解してくれている、と感動しまして……」と川村さんは自嘲気味に振り返る。
「乗馬クラブや牧場を訪ね、100頭を超える馬に出会いましたが、馬の懸命さ、純粋さには確かに惚れました。一方で、馬が動かないときは、動くまで待つしかない。即レスが当たり前の僕らは、もう待てなくなっている。でも本来のコミュニケーションは、自分の思い通りにはいかず、相手がいつも同じ方向を向いてるなんてありえない。そんな当たり前のことに気づかされました」 作品全体に通奏低音のように流れる〈ドゥダッダ、ドゥダッダ〉のリズムも、川村さん自身が感じた馬の律動だという。 「走る馬を見ると“パカラ、パカラ”という乾いた音ですが、実際に乗ると、体重500キロの巨体が動くずっしりと重い音が響き、それが自分の拍動とシンクロして、人馬一体という感覚が生み出されてゆく。馬の嘶(いなな)きは金管楽器のようですし、音楽のセッションのような心地よさすら感じました」 調教師の麦倉は言う、〈笑ってご機嫌取るのは人間だけだ〉、媚びるな、〈息を合わせろ。お互い動物だ〉。 「馬とのコミュニケーションはフィジカルなものです。彼らは噛んだり蹴ったり、人を振り落として意思表示をする。乗馬クラブの方は、馬とのコミュニケーションは、むしろそこから始まるとみな口を揃えます。野生的で、原始的で……」 馬を知るほどに、人間と動物の関係性というより、動物としての人間のありようを描くことになった。翻って、いかに私たちが歪な社会を生きているかも。 「人は言葉に頼りきっていると実感を得たので、優子は他人との接触を拒み、ほとんど喋らない人物として描きました。頷きや愛想笑いがあれば周りが勝手に汲み取ってくれます。いまは、口を開けば嘲笑や批判の対象になりますから、沈黙こそが正解かもしれない。でも、言葉のないコミュニケーションに偏る人間は幸せなのか。ラストシーンには僕なりの答えを込めました」 言葉に絶望するか、希望を見出すか。「僕は現代の幸福論を書きたい」。稀代のストーリーテラーは微笑んだ。 かわむらげんき/1979年、神奈川県生まれ。映画プロデューサーとして『告白』『悪人』『モテキ』『君の名は。』『怪物』『きみの色』『ふれる。』などを製作。2011年、史上最年少で「藤本賞」を受賞。12年に発表した初小説『世界から猫が消えたなら』がベストセラーに。著書に小説『億男』『4月になれば彼女は』『神曲』『百花』など。
「週刊文春」編集部/週刊文春 2024年11月21日号