阪神・中村GMの残した「今年はVできる」の遺言
進学高である千葉の成東高校出身。九十九里にある実家は、名家で早大から1971年に阪神にドラフト2位で指名され、挨拶にスカウトが、千葉を訪れた際、家人がベンツで迎えにきたという話がある。 選手としてはタイトルに縁はなかったが、3拍子揃った選手で、入団3年目から「1番・セカンド」としてレギュラーに定着。粘り強さと堅実な守備に定評があったが、むしろ、その野球に取り組む姿勢と、早大時代のキャプテンシーを買われ、将来のエリート幹部候補として本社から評価された。 1983年から87年まで2軍監督を務め、故・村山実氏の後を受けて1990年から1軍監督に就任した。だが、6シーズン連続で優勝を逃し、いわゆる阪神・暗黒時代を象徴する監督とされたが、コーチに指導者として不向きとされていた川藤幸三氏を入閣させたり、ダイエーと大型トレードを仕掛けたり、当時、チームの顔だった岡田影布氏に、代打・亀山努を送るなど、凡庸と非凡を合わせ持った監督だった。 スポーツ新聞のトラ番記者だった時代に、遠征先で何度も酒に誘ってもらった。大衆居酒屋チェーンの「養老の滝」から、タモリやデーモン閣下がメイクせずに来る銀座のクラブまで。アイスペールや灰皿にまで、並々と、そこらじゅうにある酒をチャンポンで注いで、回し飲みするのが恒例だった。酒が入ると豪快で、とびきり愉快な酒だった。 何もしらずにネタを拾いに、宝塚の自宅に押しかけたとき、「今日は忙しいんだ。まあ、しょうがないから、一緒に来い」と、今は、アメリカにいる長男が出場していた秋の運動会を一緒に見にいったこともあった。すっかりと、父親の顔に戻っていた勝さんは、缶コーヒーを片手に一面になるようなネタをくれた。 筆者が、阪神から中日担当への担当替えが決まったとき、当時は、まだ携帯電話もない時代で、いきなり社の編集部に「中村ですが、本郷いるか?」と電話がかかってきた。 ちょうどクリスマスの頃だった。 「今から新地に出てこい! 送別会してやるから」 呼び出されて、朝まで飲ませてもらった。あのとき転任記念にともらった茶色のペイズリー柄のネクタイは今でもタンスの奥にしまってあった。20年ぶりに引っ張り出して眺めていると、勝さんの笑い声が聞こえてくる気がして涙が止まらなくなった。 心優しい人情の人だった。