「自主映画から商業デビュー」大林宣彦監督こそが先駆けだった――恭子夫人が語る大学での出会い、二人三脚での映画づくり
―― 映画館で上映されていなくても学園祭で上映されて、大林映画は既に全国に広まっていたんですね。 恭子 監督も私も、大学の頃からいつか映画も本屋さんの本棚に並ぶような時代が来るんじゃないかと思っていました。ちょうど海の向こうのフランスなんかでヌーベルバーグが出てきたのと同じ時期だったんですよね。フランスでも同じようなことをやっている人たちがいると。だから、「いずれ大林さんの時代になるわよ」みたいな偉そうなことを言ってました。 ―― 映画館で大勢が一緒に観る映画でなく、本のように個人の好みで観る小さな映画ということですか? 恭子 だいぶ後でベータだとかVHSとか、ビデオテープで映画を観られるようになりましたけど、いずれそうなるんじゃないかと思っていましたね。 注釈 1)『青春・雲』(1957 8ミリ 30分)大林監督の8ミリ第1作だが、フィルムは現存しない。 2)『絵の中の少女』(1960 8ミリ 30分)死の匂いが漂う幻想的な作品。 3)『だんだんこ』(1961 8ミリ11分)少女が毬をつく場面ではコマ撮りによる《毬の主観》がある。 4)『木曜日』(1961 8ミリ 18分)青年の恋の苦しみを前衛的に描いたヌーベルバーグ的作品。 5)富永太郎 大正期の詩人、画家。 6)フィルム・アンデパンダン 大林監督のほか、飯村隆彦、高林陽一、ドナルド・リチ―、足立正夫など実験的な映画作家たちで結成されたグループ。 7)『Complexe=微熱の玻瑠あるいは悲しい饒舌ワルツに乗って葬列の散歩道』(1964 16ミリ 14分)コマ撮りを多用したポップで耽美的な作品。 8)『ÉMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』(1966 16ミリ 38分)ドラキュラやウエスタンなどの映画愛が詰まった抒情的な青春映画。 <聞き手>こなか・かずや 1963年三重県生まれ。映画監督。小学生の頃から8ミリカメラを回し始め、数多くの自主映画を撮る。成蹊高校映画研究部、立教大学SPPなどでの自主映画制作を経て、1986年『星空のむこうの国』で商業映画デビュー。1997年、『ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影』でウルトラシリーズ初監督。以降、監督・特技監督として映画・テレビシリーズ両方でウルトラシリーズに深く関わる。特撮、アニメーション、ドキュメンタリー、TVドラマ、劇映画で幅広く活動中。主な監督作品に、『四月怪談』(1988)、『なぞの転校生』(1998)、『ULTRAMAN』(2004)、『東京少女』(2008)、『VAMP』 (2018)、『Single8』 (2022)、『劇場版シルバニアファミリー フレアからのおくりもの』(2023)など。 「コマーシャル上がりに映画はムリだ」「よそ者を入れるな」大林宣彦監督が受けた妨害…助けてくれたのは“東宝の名監督”だった《商業デビュー作『HOUSE/ハウス』撮影秘話》 へ続く
小中 和哉/週刊文春CINEMA オンライン オリジナル
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