「自主映画から商業デビュー」大林宣彦監督こそが先駆けだった――恭子夫人が語る大学での出会い、二人三脚での映画づくり
近所の商店街では兄妹だと思われていた
―― その頃はもう大林さんとお付き合いされていたんですか? 恭子 大学の時からお付き合いしています。砧の商店街のお店のおじさんとおばさんは兄妹だと思っていたみたい。 ―― 一緒に買い物とかでよく会うから、兄妹だと思われていたんですね。 恭子 「さっきお兄さんが買っていきましたよ」とか言われてました(笑)。 ―― 『木曜日』(注4)という作品では脚本で恭子さんがクレジットされていました。 恭子 脚本ってほとんどないんです。別に私が本を書くとかじゃなくて、アイデアを出したのを監督が最後まとめてくださって。 ―― 文学部でいらっしゃったし、お話を作るのは当時からお好きだったんですか? 恭子 監督は小説を書いてましたけど、私はほとんど文章を書いてません。話したことを監督がまとめて、という感じでした。 ―― 大林さんが書かれた小説を読んで、感想を言ったりしてました? 恭子 それはありますね。監督は大学の時は『狂童群』という同人誌に小説を書いていました。『狂童群』というのは、昔、富永太郎さん(注5)たちが『白痴群』という同人誌をやっていて、それを引き継いで監督たちがやっていたんです。だから、監督は売れない小説家になると思ってましたね(笑)。昔は小説家というのは売れないものだとばかり思っていましたから。
テレビコマーシャルの草創期に演出家になった
―― 卒業される時に、大林さんは就職しようとは考えていなかったんですか? 恭子 そうですね。でも、大学の時にアルバイトで神保町にある少年科学雑誌の編集部の手伝いをしていましたね。1年ぐらいやったかもしれない。21歳から22歳の頃。そのお金で8ミリのフィルムを買ったりしてました。 ―― 就職しないで自主映画を作り続けようとしていたんですか? 恭子 フィルム・アンデパンダン(注6)の上映会で『Complexe』(注7)を紀伊國屋ホールで上映した時、電通の方が見に来られた。まだコマーシャルの草創期で、コマーシャルの演出家がいない時代、監督にやってもらえないかと言われて。だから、25歳ぐらいからコマーシャルをやってましたね。 ―― 大きな会場での上映が始まったんですね。 恭子 そうですね。『ÉMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ』(注8)は、九州から北海道まで、全国の大学の文化祭で一番たくさん上映された作品です。 ―― すごい人気だったんですね。 恭子 本当に全国で一番上映された映画じゃないかというぐらい貸し出してました。 ―― 8ミリを個人的に作り始めた頃から、個人映画作家として全国的な注目を集める頃まで、恭子さんと二人で作られてきたんですね。 恭子 そうですね。アイデアとか、衣装とか、全部やってましたから。『ドラキュラ』の衣装なんか、お金がないから、下北沢の裏地屋さんで裏地を買ってきては縫って。草原で女性が着物で帯がほどけてパーッと走る場面がありますけど、あれは全部縫っていたんです。
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