多くの人が知らない「戦後初の硫黄島遺骨調査団」より先に遺骨を収容した日本人がいた…!
なぜ日本兵1万人が消えたままなのか、硫黄島で何が起きていたのか。 民間人の上陸が原則禁止された硫黄島に4度上陸し、日米の機密文書も徹底調査したノンフィクション『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』が9刷決定と話題だ。 【写真】日本兵1万人が行方不明、「硫黄島の驚きの光景…」 ふだん本を読まない人にも届き、「イッキ読みした」「熱意に胸打たれた」「泣いた」という読者の声も多く寄せられている。
遺骨行方不明の要因3「先に遺骨を収容した日本人たちがいた」
戦後初の硫黄島遺骨調査団の前に、まだ一定程度しか風化が進んでいない膨大な遺骨と向き合った日本人集団が存在した。一般に知られていないその事実を知れたことも、報告書を開示請求した成果の一つだった。 1952年調査団報告書の「第7」の項目は「■の好意」という表題だった。■の部分は開示文書では黒塗りだった。民間人の集団名がそこに記されていると推察された。報告書によると、調査団の活動は〈この島の作業を担任している■の好意と各種の便宜供与がなかつたならば、絶対に遂行不可能であつた〉としている。具体例として〈洞窟の位置に関し、情報を提供し、貴重なる休養の時間をさいて案内の労をとり、又作業の余暇に収集した遺品を差し出す等〉の対応があったと記している。 ■は一体、どんな集団だったのか。白井氏らが本土帰還直後の3月10日、衆議院特別委員会に参考人として招致された際の議事録を読んで分かった。■は〈高野建設という会社〉だった。ただ、この議事録からは、それ以上の詳細を探ることができなかった。 この会社を探る手がかりは国立国会図書館にあった。1960年に刊行された社史『高野建設風雪30年』に詳細が記されていた。 社史によると、同社は調査団が硫黄島に上陸する約1年前の1951年2月から1955年9月にかけて米軍の〈硫黄島基地〉から〈硫黄島清掃工事〉などを受注した。この工事の目的はこうだった。〈破壊された砲台、自動車、上陸用舟艇その他もろもろの兵器(中略)を全島くまなくとり片付けて、戦争の痕跡をのこさないようにすることが目的であった〉。つまり同社は米軍からスクラップの回収を委託された会社だった。硫黄島の作業員の規模については、〈その年(1951年)の12月には350名が、島で暑いお正月をむかえている〉とある。この人数は、約1ヵ月後に上陸した調査団が出会った作業員の人数と同じであろう。 彼らは、具体的にどんな作業をしたのか。 〈島内を20数ヵ所の区域にわけて、調査班1班につき1区域を受けもち、全島いたるところシラミつぶしに、隅から隅まで調べてまわった〉。単純計算だと1班15人ほどの態勢でローラー作戦を行ったのだ。政府の調査団はたったの3人だったことを考えると、調査の目的が鉄くず回収だったとは言え、桁違いに多くの遺骨を目撃したと推察される。それを裏付ける記載が社史にあった。 〈戦火の焼土の跡には、タコの木やパパイヤそのほか名も知られない灌木が、丈こそひくいがおい茂って、その枝々には樹木の成育につれて地上をはなれた白骨が、さながら白い花のようにまといつき、超現実派の夢のような様相を呈していた。なんというむごい姿だ。焼けただれた戦車や、塹壕のあったくぼ地の雑草の中には、かならず骨片を発見したものである。地下に無数に掘られた洞窟のなかには、数しれぬ白骨が、さながら地獄絵のようにちらばっていた〉 そうした遺骨への対応は、米軍の受注業務の枠から外れていた。しかし、作業員たちはこんな対応をとった。 〈社員をふくめて労務者のなかには、過ぎにし戦争のなかに、兄弟、親戚、友人たちを失ったものも多かろう。この島で玉砕した英霊の身寄りのものもいたであろう。しかも同胞のなきがらである。そのうち、だれとはなしに野ざらしの遺骨を集めだした。そして、米軍の目にふれないように、そうっと安置したのである〉 半世紀以上続く硫黄島遺骨収集の派遣団は一般に人数が数十人、期間は2週間程度だ。つまり、高野建設は戦後初にして最大最長規模の「遺骨収集団」だったと言える。 彼らが遺骨を〈そうっと安置した〉場所というのはどこなのか。それはこの社史を読む限りは、謎だった。
酒井 聡平(北海道新聞記者)