サッキの目に狂いはなかった。トリノ監督は「戦術家ではなく戦略家」。バノーリ監督は何が優れているのか?【コラム】
⚫️“戦術家”ではなく“戦略家”
そして、2023-24シーズンはリーグ最多の69得点を挙げて、3位でレギュラーシーズンをフィニッシュ。直接昇格こそ逃したが、6位パレルモ、4位クレモネーゼとのプレーオフに打ち勝ち、3シーズンぶりのセリエA復帰に導いた。この攻撃力の高さが、バノーリのサッカースタイルで、トリノでも攻撃的サッカーが見られることになりそうだ。 サッキは、ベネツィア時代のバノーリについても高く評価している。「4、5回、ベネツィアの試合を観た。良く戦っていたよ。あらゆる動きについての基本理念が気に入った。それは、積極的な攻撃、ピッチを支配しようとする意欲だ。バノーリは、仕事に対する向き合い方を熟知していて、それを選手たちに伝達することができる人物だ。ベネツィアを観たとき、モダンなチームに思えたよ」 「冬の移籍市場では、補強がなかっただけでなく、何人かの主力が売却されてしまった。それでも、彼はチームを強固なものにし、自信を植え付け、最後は昇格を成功させた。バノーリのことを、短期的な目標達成のための“戦術家”ではなく、目標を設定し、長期的なビジョンを持つ“戦略家”であると私はみなしているよ」 ミランの黄金時代を築いたサッキだが、選手としてはプロ経験がなく、1973年にセコンダ・カテゴリーア(当時の9部リーグ)のフジンニャーノで監督業をスタートし、14年もの年月をかけてあのミランを指揮することとなった叩き上げの人だ。指導者としての下積み時代が長く、指導者の道を歩み始めてからセリエAにたどり着くまでに17年を要したバノーリについても同じようなシンパシーを抱いているのだろう。2人に共通するもの、それはカルチョへの情熱だ。
⚫️“グランデ・トリノ”の復活へ。「カルチョは私にとって…」
バノーリは、サッカーを熱くこう語る。「カルチョは私にとって大きな情熱だ。時にピッチ上での自分の振る舞いに少し恥ずかしさを感じることもあるが、それは情熱が、羞恥心を超えさせるからだ。私は選手たちにも情熱を抱いてほしいと思っている。私が求めることの理由を理解してほしい。強い責任感を持ち、挑戦し続けることを私は厭わない」。ピッチから選手に激しく指示を送る姿は、闘将のコンテを時に彷彿させる。バノーリもまた熱血漢だ。 トリノは、1927/28シーズンのトップリーグ制覇を皮切りに、1949年までに6度の優勝を成し遂げ、7度の優勝を果たしていたユベントスとイタリアサッカー界の覇権を争ってきたイタリアのサッカーを語る上で絶対に欠くことのできないクラブだ。 そして、1949年5月4日にトリノ郊外の丘陵地で起こったスペルガの悲劇もイタリア・サッカー史から触れずに通ることはできない、忌まわしい航空事故だ。トリノの選手18名と英国人のレスリー・リーブスリー監督、スタッフおよびクラブのフロントら5名を含む31名が命を落とした。トリノだけでなく、イタリアにとって、決して忘れることのできない惨劇である。多くの選手をイタリア代表にも送り出していたトリノはその後、チームの再建が上手く進まず、成績も低迷。10年はセリエAで耐え続けたが、1959/60シーズンにはセリエB降格も経験した。 それでも、1975/76シーズンにはユベントスとの苛烈な優勝争いを制し、7度目のリーグ制覇を実現。“グランデ・トリノ(偉大なトリノ)”を復活させた。だが、それ以降は、1992/93シーズンのコッパ・イタリア優勝に留まり、現在はタイトル獲得とは無縁の日々を送っている。21世紀に入ってからは、2013/14シーズンと2018/19シーズンの7位が最高位だが、彼らが歩んできた歴史を鑑みれば、今いる場所がふさわしいものではない。少なくとも、欧州カップ戦の出場権獲得を夢見る権利はあるはずだ。 (文:佐藤徳和)
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