家族を失い、仕事もなくなった 震災から止まった時を動かした訪問者 #知り続ける
一緒に泣いてくれた人
さらに1年ほど経った14年ごろに、妻が戻ってきた。「仕事もしないで」と愚痴られ、まもなく離婚届を置いて出て行った。 子どもはおらず、老後は2人で穏やかに暮らすのだろうと思っていた。どうしたらいいのか。急に、うろたえた。 ある日、布団の上でおしっこを漏らしたクーに、「何してるんだ!」と手をあげた。そばにいてくれる唯一の存在なのに、ついカッとなってしまった。 「このままでは自分が何すっか分からない」。行政の相談会に出向くと、「相馬広域こころのケアセンター」(通称「なごみ」)を紹介された。 初めて訪れたのは、16年1月。出迎えてくれた臨床心理士の足立知子さん(41)に打ち明けた。 妻が出て行ったこと。 母と姉を失ったこと。 仕事もなくなったこと。 「うんうん」と相づちを打つ足立さんに語りかけているうち、涙が止まらなくなった。足立さんもポロポロと泣いている。ようやく、温かい心で受け入れられた気がした。 足立さんからは「PTSD(心的外傷後ストレス障害)のような症状だ」と言われた。生活状況を気にしているようで、「家に行かせてもらえませんか」と頼まれた。 部屋を見せる勇気はなかった。自分をすべてさらけ出さないといけない気がして、ちゅうちょした。 それでも、なごみには通い続けた。 「この5年間って何だったんだろう」 「何とか生き抜くための5年間だったんだよね。だから今があるんじゃないのかな」 否定せず、耳を傾けてくれた。半年後、包み隠さず語れるようになって、自宅に招いた。
つらさを断ち切る作業
居間の所々に、飲食店を経営していた頃の食器や灰皿などの備品があった。妻の荷物もそのまま。庭に放置した軽バンにも備品を詰め込んでいた。震災当時から、時が止まっているかのようだった。 中でも、オーディオルームに並ぶテレビモニターだ。毎年3月11日前後になると、震災報道から目が離せなくなり、母を思い出しては落ち込んでいた。 「一緒に片付けましょう!」 足立さんにそう言われて整理が始まった。オーディオ機器やモニターはリサイクルショップに引き取ってもらった。片付いたオーディオルームには、植物の鉢を置き、家具の配置も換えた。震災後のつらさを断ち切る作業になった。「うまくいかないことを東電のせいばかりにしていたかもしれない」と思えた。 足立さんは必ず、次に会う約束をしてくれた。毎月の訪問が待ち遠しくなり、生活は楽ではないのに、ケーキとコーヒーを用意した。日々の支えができた気がした。 18年に運送の仕事を始めた。だが、家のローン返済が重くのしかかり、食費を削って体調を崩した。仕事を諦めざるを得なくなって、また孤独感が深まった。 そんな時、なごみに料理や木工の集いなどに誘ってもらって気づいたこともあった。 「人との出会いが化学反応を生む。飲食店をやっていると、そういうのが楽しかったんだよな」 自己破産を決断し、自宅も処分。なごみのスタッフが、生活保護の受給手続きや家探しを手伝ってくれた。21年に復興公営住宅に入った。 もう一度、生活を仕切り直した。 なごみが主催する鍋パーティーで料理の腕を振るい、会話で他の利用者を和ませる。復興公営住宅ではごみを拾い、ベンチで年配の住民と世間話に花を咲かせる。ひとり親家庭の子どもの自転車を修理し、学校の出来事を聞いた。 「これからの10年をどう生きるかって考えた時に、やっぱり地域への恩返し。まずは身近なところから」