結局「鎌倉幕府の成立」って何年? “イイクニつくろう”に代わる6つの新説を一挙に紹介!
2023年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で改めて注目された鎌倉幕府成立の経緯。かつては「イイクニつくろう鎌倉幕府」の語呂合わせで1192年の成立として授業で教えられたものだが、近年の研究で幕府成立のタイミングについてさまざまな新説が登場している。 従来説:源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年に成立した 新説:1180年からの治承・寿永の乱を皮切りに、源頼朝を中心として徐々に成立した ■頼朝の任官などを根拠としてさまざまな新説が存在する 鎌倉幕府の成立年代は、1192年。「イイクニつくろう鎌倉幕府」の語呂合わせで覚えた昭和生まれの人も多いだろう。例えば、昭和の教科書には次のように書かれていた。 「頼朝は、1192年、朝廷から征夷大将軍に任じられたので、その政府を鎌倉幕府とよび、この幕府がほろびるまでの約140年間を鎌倉時代という」(『新訂 新しい社会【歴史的分野】』東京書籍、1972年)。 しかし、平成になると、成立年に関する記述は、次のように変化する。「平氏の滅亡後、義経が頼朝と対立すると、頼朝は義経をとらえることを口実に朝廷に強くせまり、国ごとに守護を、荘園や公領ごとに地頭を置くことを認めさせ、鎌倉幕府を開いて武家政治を始めました。1192年、征夷大将軍に任命された頼朝は、政治制度を整えましたが、それは簡素なものでした」(『新編 新しい社会【歴史】』東京書籍、2006年)。 「こうして、東国を中心とした頼朝の支配権は、西国にもおよぶようになり、武家政権としての鎌倉幕府が確立した」(『高校日本史B』山川出版社、2014年)。鎌倉幕府は、1192年以前に成立したと読める記述や、特定の年号を記さずに次第に幕府が成立したとする教科書が主流となっているのだ。 それにしても、教科書の記述は、なぜこのような変化を見せたのか?鎌倉幕府の成立年代については、複数の説があり、今でも一致した見解はない。どのような説があるかというと、まず(1) 治承4年(1180)説。これは、頼朝が鎌倉に入った年であり、侍所が置かれた年でもある。頼朝の勢力が鎌倉に入り、南関東一帯に軍事政権を確立した年をもって幕府成立年とするのである。 (2)は、寿永2年(1183)説。この年、頼朝は朝廷から「寿永二年十月宣旨」を獲得する。東国の荘園や公領に対する支配権が公認された年として幕府成立年とするのだ。 (3)は、元暦元年(1184)説。この年には、裁判事務を担当する問注所や、政務・財務を担う公文 所(後に政所)が創設されている。鎌倉殿の政権の機関充実を、幕府成立の画期とする説である。 (4)は、文治元年(1185)説。自らに叛いた源義経や源行家の追捕を理由に、頼朝は朝廷に守護・地頭設置の権限を認めさせる。関東のみならず、日本全国の軍事・警察責任者の立場を頼朝が獲得したと認識し、幕府成立の年とするのだ。 (5)は、建久元年(1190)説。この年、頼朝は右近衛大将に朝廷から任命されている。近衛府の長官に任命された年を幕府成立年とする考え方である。 (6)は、同じく建久元年で別の根拠とする説。この年に頼朝は、日本国総追捕使・総地頭の地位も得ている。諸国守護を恒常的に担う立場となった年を、幕府成立年としている。 ■頼朝は「征夷大将軍」を希望していなかった? さらに、最近では、頼朝は当初から征夷大将軍を積極的に望んだというよりは「大将軍」を希望していた事が史料から明らかになってきた。実際は、朝廷が「惣官」「征東大将軍」「上将軍」「征夷大将軍」のなかから吉例という事で征夷大将軍を選び、任命したのだ。つまり、頼朝の就任は、偶然の要素が強いという事になる。 また、征夷大将軍という官職も幕府首長の官職として確立されていた訳ではなく、2代頼家が同職を継いだのは、頼朝の後を継いだ3年後の事であった。このような事柄を踏まえた時、征夷大将軍の就任でもって幕府成立とする見方はより難しくなるだろう。治承・寿永の内乱のなかで、次第に頼朝を中心とする権力機構が成立していったとするのが穏当ではないか。それでも幕府の成立年代を明らかにするべきだという意見もまだ存在し、論争は今後も続いていくのだろう。 監修・文/濱田浩一郎 歴史人2022年11月号「日本史の新常識100」より
歴史人編集部