徳川埋蔵金、3代・家光の時代にほぼ「すっからかん」 家康の「まさかのときに使え」という遺言むなしく
■「360万両」は数字を盛り過ぎ 誰もが一度は聞いたことのある「徳川埋蔵金」。1990年代には多くのテレビ番組が作られ、記憶の片隅にあるという読者も多いかもしれません。この手の番組では、埋蔵金の総額が360万両~400万両だったと語られてきましたが、この数字に根拠はあるのでしょうか? 幕末の勝海舟が、「幕府の軍用金の蓄えの額が360万両だ」と証言したことに基づいてはいるのですが、本当は家康の死の直後ですら、そこまで豪勢な話ではなかったようです。 家康の遺産の詳細を記した帳簿『久能御蔵金銀請取帳』によると、家康が残したのは「金九四万両、銀四万九五三〇貫目、銀銭五五〇両で、金換算では実に二〇〇万両(村上隆『金・銀・銅の日本史』)だったことがわかります。 この頃の200万両=約2000億円相当でしょうか。つまり、勝海舟による徳川埋蔵金=360万両説には史料的な根拠がなく、江戸幕府がもっとも富んでいた江戸時代初期においても、「360万両」は数字を盛りすぎてしまっているのです。 ■家光の時代に、将軍家の遺産は霧散 家康の遺産が実際にどうなったかについても、正確な使い道が判明しているのでご紹介しましょう。 100万両が将軍家(=徳川宗家)に受け継がれ、残りの100万両は御三家(尾張・紀伊・水戸の徳川家)で分け合ったそうです。しかし、江戸時代初期から将軍家の金遣いはあまりに荒く、秀忠、家光と二代にわたって、江戸城の天守閣は代替わりの度に理由をつけて豪華に作り直されました。 家光自慢の巨大天守閣も結局は落雷で燃えてしまっているので、ドケチの家康が生涯かけて蓄えた巨額の財産は、彼の息子と孫の代で、はやくも霧散してしまったのでした。残ったお金も、家康を崇拝していた家光の時代に日光東照宮の建造費に注ぎ込まれたので、消えてしまっています。 ■帳面まで消え去った 将軍家がそうなのですから、御三家が100万両を3等分して引き継いだお金など、年々豪華になる一方の生活費用に転用され、もっと早期に使い込まれてしまったと考えるほうが理にかなっているでしょう。つまり、家康の遺産を「徳川埋蔵金」として考えることは不可能ということです。 家康は遺産を、まさかのときの軍資金に使えと遺言していたようですが、残念ながら、彼の遺産は、徳川家の支配が揺らいだ幕末の時点ではすっからかん、もしくはほとんど残されていなかったのです。 越前藩の学者・中根雪江が『戊辰日記』で証言しているように、幕末の江戸城開城の後、新政府の者たちは城内に金銀はおろか帳面まで消え去ってなくなっていた事実に驚愕させられました。 こうした状況は、小栗忠順などが埋蔵金を城外に運び出したからではないかという可能性を考える人もいるのでしょうが、財源と共に、幕府の命運は尽きていたと考えるほうが真実に近いと筆者には思われてなりません。
堀江宏樹