紀伊半島を襲った「南海トラフ巨大地震」と「大津波」、さらに翌年には「首都直下地震」…その衝撃的な「災害の様相」
江戸時代の津波避難誘導灯「稲むらの火」
安政南海地震の時、紀伊半島(串本)には最大15メートルの大津波が押し寄せた。和歌山県有田郡廣村(広川町)も地震発生から約40分後に5メートル以上の津波に襲われ、家屋約340戸のうち流失125戸、全半壊56戸、死者36名という甚大被害を出す。それでも、当時廣村の人口1,323人中1,287人(約97%)が助かっている。そこには「稲むらの火」として今も語り継がれる物語があった。 【画像】「南海トラフ巨大地震」で日本が衝撃的な有り様に…そのヤバすぎる被害規模 この物語は英文学者小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン・1850~1940)の著書『A Living God 』を、当時南部町(日高郡みなべ町)の小学校訓導だった中井常蔵氏(後に校長・1908~1994)が翻訳し書き改めたもので、1937年(昭和12年)から10年間、国定教科書(小学国語読本)に「稲むらの火」として掲載された。「稲むらの火」の物語は1,000万人以上の全国児童の胸を打ち、感銘を与えた優れた防災教材。一部仮名遣い等を現代使用にして、当時小学国語読本に掲載された『稲むらの火』を紹介する。 ~「これはただ事ではない」とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。今の地震は、別に烈しいというほどのものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。 五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では豊年を祝う宵祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向に気が付かないもののようである。 村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸いつけられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、みるみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れてきた。 「大変だ。津波がやってくるに違いない」と、五兵衛は思った。 このままにしておいたら、四百の命が、村もろともひとのみにやられてしまう。もう一刻も猶予はできない。 「よし」と叫んで、家に駆け込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出してきた。そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んであった。 「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛は、いきなりその稲むらのひとつに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。 こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は天をこがした。 山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。「火事だ。庄屋さんの家だ」と、村の若い者は、急いで山手へ駆け出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うように駆け出した。 高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。やっと二十人程の若者が、かけ上がってきた。彼等は、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声で言った。 「うっちゃっておけ。ーー大変だ。村中の人に来てもらうんだ」 村中の人は、おいおい集まってきた。五兵衛は、後から後から上がってくる老幼男女を一人一人数えた。集まってきた人々は、もえている稲むらと五兵衛の顔とを、代わる代わる見比べた。その時、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。 「見ろ、やってきたぞ」 たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指差す方向を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。 「津波だ」と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったかと思うと、山がのしかかって来たような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとをもって、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後ろへ飛びのいた。雲のように山手へ突進してきた水煙の外は何物も見えなかった。人々は、自分などの村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は波にえぐりとられてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。稲むらの火は、風にあおられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明るくした。 はじめて我にかえった村人は、この火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった」~ 物語の舞台は紀州有田郡湯浅廣村(和歌山県有田郡広川町・ひろがわちょう)。主人公の五兵衛は実在の人物。モデルとなったのはは紀州(和歌山)、総州(千葉銚子)、江戸(東京)などで代々手広く醤油製造業を営む濱口家(ヤマサ醤油)7代目当主の濱口儀兵衛(のちの濱口梧陵)(1820~1886)。 濱口儀兵衛は佐久間象山に学び、勝海舟、福沢諭吉などと親交を結ぶ。地震発生前にも私財で「耐久社」(現県立耐久高校)や共立学舎という学校を創立するなど、後進の育成や社会事業の発展に努めた篤志家だ。安政南海地震発生当時34歳の働き盛りで、廣村に滞在中だった。前日の地震(安政東海地震)ではさほどの被害はなかったが、翌日発生した地震の揺れ方と潮汐の異常を感じ、儀兵衛は若者たちと一緒に村人たちをに高台の廣八幡宮への避難を呼びかける途中、自らも津波に流されるがなんとか丘に漂着し九死に一生を得る。廣八幡宮に行くと、泣き叫びながら親、子、兄弟を捜す声が溢れていた。若者たち十余名とともに松明(たいまつ)を焚いて再び逃げ遅れた人の救助に向かうが、流木などが道を塞ぎ歩行を妨げていた。すでに真っ暗になった中、儀兵衛はこれでは逃げる道さえわからないだろうと、廣八幡宮に続く道の両側にある自分の田んぼの「稲むら(脱穀済みの藁を積んだもの)」に次々と火を付けた。闇の中に点々と燃え上がる炎が廣八幡宮までの道を照らし、今でいう避難経路を示す避難誘導灯の役割を果たした。それによって多くの人たちの命が救われたという。 その後儀兵衛は被災者救済のため、莫大な私財を投入し避難小屋をつくり、復興対策として広村堤防の工事を進めた。これは津波から町を守る防災工事というだけでなく、被災者の失業対策を兼ねたものだった。翌年から4年の歳月、延べ人員56,736人、銀94貫(約5億円)の私財を投じ、全長600m、幅20m、高さ5mの大防波堤「広村堤防」を築いた。この堤防は職を失った人を助けただけでなく、1946年(昭和21年)に発生した昭和の南海地震津波から住民を守り抜いたのである。 毎年11月、広川町では儀兵衛の徳を刻んだ「感恩碑」の前で「津浪祭」が開催され儀兵衛の偉業を称え感謝している。後年儀兵衛は濱口梧陵を名乗り、新政府では大参事、初代和歌山県会議長、初代駅逓頭(郵政大臣に相当)などの要職に就き、近代日本の発展に貢献し偉大な足跡を残した。1885年世界一周の旅行中、ニューヨークで客死(66歳)するが、今でも地元のヒーローであり幕末の英傑(義人)として、広く愛され尊敬されている。