紀伊半島を襲った「南海トラフ巨大地震」と「大津波」、さらに翌年には「首都直下地震」…その衝撃的な「災害の様相」
海溝や内陸で長く続いた「余震」
安政南海地震後は余震の記録が多く残されている。安政東海・南海地震の余震は2,079回ほどとされ、余震とされる地震は約9年以上続いたという。ただし、当時は地震の規模や震源などの観測技術がなかったため、東海地震と南海地震の余震かの区別・判別が明確にされていない。 安政南海地震の約40時間後、1854年12月26日午前9~10時ごろ、大分県と四国(愛媛県)との間にある豊予海峡のやや大分寄りで、安芸灘~伊予灘~豊後水道に至る領域を震源とする安政の「豊予海峡地震(ほうよかいきょうじしん・M7.4)」が発生する。2日前に発生した安政南海地震と被害地域が重なるため、記録された被害はいずれの地震によるものか区別が困難であるが、豊後国鶴崎で100戸、別府では200戸の家屋倒壊などとあり、死者数は不明という(震動記)。伊予(愛媛県)の松山、大洲、伊予吉田、豊後(大分県)の杵築、日出、岡、臼杵、佐伯では、南海地震では破損が生じた程度であったが、豊予海峡地震では潰家(家屋倒壊)が生じたとしている。豊前小倉(ぶぜんこくら・北九州市)では南海地震による被害記録は見当たらないが、豊予海峡地震で潰家、死者が出た(鈴木大雑集)という。肥後人吉(熊本県人吉市)では幕府への被害の届け出に、「去月五日申中刻、同七日辰下刻古来より無之大地震にて、住居向始城内外・櫓・塀・門等及大破、潰候場所も有之」とあるだけで、両地震で被害があったことを報告しているが、地震別に被害を区別していない。 なお、安政南海地震では、豊後国内(大分県中部・南部)府内藩で死者18人、家屋全壊4546棟、臼杵藩(大分県臼杵市)で家屋全壊500棟の被害があったとされるが、前述のように両地震の被害の峻別は困難。豊予海峡地震は南海トラフの地震ではないが、本震に誘発された広義の余震との推定もある。 ほかにも約75日後の1855年3月18日(安政2年2月1日)、飛騨国白川郷の陸域を震源とする飛騨地震(M6.8)が発生している。震源に近い飛騨国(ひだのくに)白川郷(しらかわごう)保木脇村(ほきわきむら・岐阜県大野郡)、野谷村、大牧村(現・岐阜県大野郡白川村)で土砂災害が発生。保木脇村では民家2軒が倒壊し12名が死亡したという。 そのほか、安政の南海地震・東海地震の余震とされるのは、翌年1855年11月7日(安政2年9月28日)、遠州灘沖を震源とするM7.5(諸説有)の地震。駿河湾沿いで建物倒壊、地割れ、泥水の噴出(液状化)と津波も発生している。 安政の東海・南海地震から約11ヶ月後の1855年11月11日(安政2年10月2日)午後10時ごろ、安政江戸地震 (M 6.9~7.4)が発生。江戸や横浜などで震度6強と推定される大揺れとなり、死者数は4,000人~10,000人とされている。震源は東京湾北部・荒川河口付近、または千葉北西部で震源の深さ約40kmと考えられているが、近代的観測がなされる(1884年)以前の地震のため、震源やメカニズムについては確定できていないが、今でいう首都直下地震と推定されている。 この地震による町方の死者数は、幕府による初回公式調査(11月15日)で4,394人、2回目調査で4,741人とされ、倒壊家屋1万4,346戸。それに寺社領、より広い居住地を有し被害甚大だった武家屋敷の被害を含めると、この地震による死者は約1万人と推定されている。被害が多かったのは関東平野南部の比較的狭い範囲に限られているが、当時の大都市江戸の被害は甚大であった。とくに下町の新しい埋め立てや軟弱地盤地区(深川、浅草、隅田川東岸など)が震度6弱以上と推定されている。地震直後に約30カ所から出火、早朝から小雨が降りあまり風もなかったため、延焼は限定的で翌日の午前10時頃にはほぼ鎮火するが、約1.5km2を焼失。この地震で小石川(東京都文京区)にあった水戸藩邸が倒壊し、藩主徳川斉昭(なりあき)の腹心で水戸の両田と言われた戸田忠太夫、藤田東湖が死亡。とくに水戸学の大家であり、吉田松陰らに代表される尊王攘夷派の思想的基盤を築いたといわれる藤田東湖の死は、各方面に衝撃を与えた。権力者に近い有力な指導者を失った水戸藩は、以降内部抗争が激化し、脱藩者17名らによる1860年(万延元年)の井伊直弼大老暗殺事件「桜田門外の変」につながっていく。 また、江戸城や幕臣たちの屋敷が大破した上、前々年の嘉永小田原地震、前年の安政東海地震、南海地震で被災した各藩に対する復興資金の貸し付け金や復旧復興事業費に加え、この地震で被害を受けた旗本や御家人、被災した町方への支援など多額の出費が続き、幕末の混乱の上に財政悪化が深刻になり幕府の弱体化が加速していく。 さらに天変地異は続き、4年半後の1858年4月9日(安政5年2月26日)に飛越地震 (M 7.0 - 7.1)。その14日後の4月23日にはM5.7の信濃大町地震(信濃北西部)。1861年2月14日には文久西尾地震(M6.0程度)が発生。この地震の震源域は1945年三河地震に類似している。 安政江戸地震の12年後の1867年(慶応3年)、徳川幕府は倒れ、翌年1868年江戸は東京に改称。安政東海地震前後の下田で日露和親条約締結にあたった川路聖謨は江戸開城の知らせを受け、割腹の後ピストルで咽喉を打ち抜き自決した。ピストルで自決したのは、すでに半身不随の身だったので、刀だけでは死ねないと判断したものといわれる。滅びゆく徳川家に殉じ、武士道を全うした壮絶な66歳だった。 東日本大震災後も余震や誘発地震が長く続いたが、その地震規模が1.4倍のM9.1の南海トラフ巨大地震が発生すれば、内陸を巻き込んだ震源域の影響で規模の大きな余震や誘発などによる続発地震が多発する可能性が高い。2016年の熊本地震では、3日間に震度6弱以上の地震が7回も発生している。地震後の余震、続発地震に対する警戒態勢をどうとるかが問われている。 さらに関連記事<「南海トラフ巨大地震」は必ず起きる…そのとき「日本中」を襲う「衝撃的な事態」>では、内閣府が出している情報をもとに、広範に及ぶ地震の影響を解説する。
現代ビジネス編集部