100年越しの恩返し トルコ×日本の“奇跡の絆”を導いた「ロシアには頼るな」という世論
「どうにか日本人の手で帰国させたい!」
当時はリアルタイムの気象情報など望めるべくもない時代、台風の影響が残るなか、和歌山県串本町大島の住人たちは不眠不休で、荒れる天気や波とも戦いながら、乗組員の救助に当たったといいます。また、不運にも亡くなってしまった遺体の捜索、収容も行いました。 そして、初めて出会うイスラム教の人々のために心を配り、できる限り彼らの意図を汲もうとコミュニケーションを図りました。生存者のために日本全国から義援金も集まったといいます。 こうして事故から約1か月後、治療を終えた生存者たちを本国に送り返すことになります。当初は日本ではなく、ロシアが生存者の搬送を引き受けると申し入れていました。 しかし、この件が新聞で報じられると、世論が「なぜロシアに任せるのだ。日本人の手で送り届けるべきだ」と反発。政府も世論に押される形となり、日本海軍の軍艦「比叡」と「金剛」を派遣する方針を固め、生存者を無事本国へと帰国させる決断をすることになります。 現在の日本人には理解しにくいことですが、当時は飛行機もない時代。そして日本海軍も創設されたばかりです。なけなしの軍艦2隻を年単位で派遣するのは、膨大な資金の消費と戦力の空白が生まれるため、当時の日本政府にとっては一大決心でした。 翌年の1891(明治24)年1月2日、「比叡」と「金剛」は当時オスマン帝国の首都だったイスタンブールの港に到着し、トルコ国民の心からの感謝に迎えられたと伝えられています。 さて、この事故により、絆は深まりましたが、結局オスマン帝国とは友好条約を結ぶことはなく、第一次世界大戦後1923 (大正12)年になってからようやくローザンヌ条約によりトルコ共和国と正式な国交が結ばれます。この頃、既に日本では、かつて「エルトゥールル」を巡って同国と様々な関わりがあったことは忘れられていました。
100年越しの恩返し!
しかし、事故からおよそ100年後、両国の絆は再び認識されることになります。 1985(昭和60)年、中東ではイラン・イラク戦争が勃発し、緊張に包まれていました。そして3月17日、イラクのサダム・フセイン大統領は「今から48時間後にイラン上空を飛ぶ航空機はすべて無差別に攻撃する」と宣言。イランに住んでいた日本人は、空港に向かいますが、どの航空機も満席でイランから出国することはできませんでした。 世界各国では、自国民を救出するために航空機をイランに向かわせますが、日本からの航空機は「安全が確保できない」として派遣を見送ることになりました。しかし、イランからの脱出が絶望的となった日本人たちに、手を差し伸べた国がありました。それがトルコです。 トルコは、トルコ航空の旅客機2機を取り残された日本人215名のために提供し、全員がイランを脱出することができました。それはタイムリミットまであと1時間というギリギリの時間でした。 当時イランにはトルコ人もたくさん取り残されていましたが、誰もトルコ政府の決定に文句を言わず日本人を飛行機に乗せ、自分たちは陸路で脱出したといいます。 なぜ、そんな危険を冒してまで、トルコの人びとは日本人を助けてくれたのか。後に駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏はこう語りました。 「エルトゥールル号の事故に際して、日本人が行った献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生のころ、教科書で学びました。トルコでは子どもたちもエルトゥールル号の事を知っています。それで、イランで困っている日本人を助けようと、トルコの航空機が飛んだのです」。 エルトゥールル号が沈んだ遭難海域を見下ろす、和歌山県串本町には、遭難の翌年には「土国軍艦遭難之碑」が建立されました。その後、何度も追悼慰霊祭が催されています。この追悼慰霊祭は、第二次世界大戦時に一度中断があったものの、現在でも5年ごとにトルコ共和国との共催で行われています。
凪破真名(歴史ライター・編集)