藤井聡太21歳は永世棋聖、羽生善治25歳は畠田理恵さんと結婚…「藤井・羽生ブームと忙殺日程の失冠」“七冠の天才棋士”今と28年前を比較
「羽生七冠誕生」の96年はどんなブームだったか
時はさかのぼって1996年2月14日17時6分。谷川浩司王将(当時33。以下すべて同じ)に羽生六冠(25)が挑戦した第45期王将戦七番勝負第4局で、羽生が勝って谷川に4連勝した。その結果、羽生は前人未到の七冠制覇を達成した。 七冠王誕生のニュースは、テレビや街の電光掲示板で速報が流され、当日のうちに日本列島を駆け抜けた。翌朝には新聞の全紙が一面で報じ、スポーツ紙の大見出しに羽生の二文字が載った。 羽生はNHKと民放各局にテレビ出演し、「七冠はこの数年の夢でした」と喜びを語った。1人の天才棋士の大活躍がメディアに大きく取り上げられ、日本中に注目されたのは初めてのことだった。 羽生七冠の話題によって、新しい将棋ファン(特に若い女性)が増え、各地の将棋イベントは大盛況となった。高度な内容の書籍『羽生の頭脳』全10巻は、初心者も買って20万部以上も売れた。ゲーム機ソフト『森田将棋』に3連勝すれば(当時の将棋ソフトはまだ弱かった)免状を取得できる企画では、申請者が激増した。 20~30代の棋士が全員独身だった時期があった。しかし羽生七冠以降は、棋士の結婚が相次いだ。交際する女性に対して「私はあの羽生さんの仕事仲間」という一言が、結婚の決め手になったと思う。
将棋界が活気づいた「羽生効果と藤井効果」
以上の例のように、1990年代半ばの将棋界はあらゆる分野で活気づいていて、一連の好現象を「羽生効果」と呼んだ。現代でも藤井竜王・名人の大活躍によって「藤井効果」が生じ、将棋人気は大いに高まっている。 七冠制覇から6日後の2月20日。羽生はオールスター勝ち抜き戦(現在は終了)で井上慶太六段(32)と対戦し、当日は多くの報道陣が将棋会館に集まった。羽生が目当てだったが、井上が勝利する結果となった。井上は終局後に「谷川さん(井上の兄弟子)の敵討ちですね」と声をかけられ、翌日には羽生七冠に初めて黒星をつけたと報じられた。勝っても負けても羽生の人気は絶大だった。 羽生は井上に敗れて14連勝で止まった。1995年度の勝率は結果的に.836(46勝9敗)となり、1967年度に中原誠五段(20)が挙げた最高勝率の.855(47勝8敗)に及ばなかった。