57億円ともいわれたフェラーリ「250テスタロッサ」の落札価格は…。世界を転々としたヒストリーを紹介します
フェラーリ250GTO風だった時期も・・・・・・
このほどサザビーズのオークションに出品された250TR、シャシーNo.0738 TR は、1958年春に工場で完成した19台の「ポンツーンフェンダー」のうちの1台とされる。ベネズエラのカラカスにあるフェラーリの中南米地区正式代理人、カルロス・カウフマンの仲介によって、ブラジルのサンパウロ在住のレーシングドライバー、ジャン-ルイ・ラセルダ・ソアレスのためにオーダーされたという。 No.0738 TRは1958年6月にブラジルへと到着。ソアレスはすぐにレースに参戦を始める。彼が主宰する「スクーデリア・ラルガティシャ」は、ソアレス自身とチコ・ランディ、ルチアーノ・デッラ・ポルタで構成され、プロドライバーが経営する「ジェントルメンレーサー」チームだった。 1960年シーズン末までに、チームはブラジル全土で14レースに0738 TRとともに参戦し、複数の勝利と半ダースの表彰台フィニッシュを達成した。しかし1961年になると、シャシーNo.0738 TRはジョルジオ・モローニに売却する。 モローニはすぐにイタリアのモデナに移送し、のちに伝説のフェラーリ330P4のボディワークを手がけることになるピエロ・ドローゴによって、250GTOを若干モダナイズしたような、なんとハッチゲートつきのベルリネッタボディが架装されることになる。 革新性と新しいデザインが求められるスポーツ界において、モローニはより洗練されたスタイルのボディワークを採用することで、競争力のあるレースに長くとどまる能力を維持することができると考えたとされる。しかし現実には、メカニズムは手つかずのまま残されており、事実上のデザインスタディに終わってしまう。 それでもモローニは、1964年と1965年の少なくとも2回、この魔改造テスタロッサでレースに参戦したのち、1965年秋にクラウディオ・クラビンに売却する。そして1975年、サンパウロで元レーシングドライバーのカミッロ・クリストファロに売却されたあとは、1986年に伝説の自動車「トレジャーハンター」コリン・クラッブによって発見され、イギリスに持ち帰るまで約10年間保管されていた。 No.0738 TRはそののち米国の大物フェラーリ・コレクターであるロバート・ルービンに売却され、250GTOとガレージスペースを共有するのだが、さらに数年後には英国に売却。そこでコレクターであるポール・ヴェスティ卿のコレクションに収まることになった。 ヴェスティ卿の保護のもと、No.0738 TRはデビッド・コッティンガムの率いる世界最高クラスのフェラーリ専門業者「DKエンジニアリング」のスペシャリストによって、丹念かつ慎重に修復を敢行。また「RSパネルズ」社は、完全に正確なアロイボディを細心の注意を払って手作業で成形し、ブラジルの伝統に敬意を表して緑色のノーズバンドで黄色に塗装した。 ヴェスティ卿は数年間にわたって、この250テスタロッサを保有しながら「ミッレミリア・ストーリカ」や「グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード」などのイベントでドライビングを楽しんだのち、1995年に「330 P3」を入手するための複雑な取引の一環として売却することになったという。 そして1996年、No.0738 TRは有名コレクターであり熱心なクラシックカーレーサーでもあるカルロス・モンテベルデによって入手され、彼は所有中に50回以上のレースでこのマシンを出走させている。ただし、マルセル・マッシーニのヒストリーレポートにも記されているように、1998年と2001年にレース中の事故に巻き込まれ、その後2回とも慎重にレストアされたとのことである。