暗殺直前の龍馬が派遣を要請 信頼を寄せた財政再建のプロ“由利公正”とは
幕末の志士、坂本龍馬(1836~67年)が暗殺される5日前に書いた直筆の手紙が見つかり、話題になっています。文中では「新国家」の記述が初めて確認され、龍馬の新しい国作りに懸ける強い思いが伝わる、と注目されました。理想の国家をつくるため、手紙では、新政府の財政を担ってほしいと、越前・福井藩士、三岡八郎(後の由利公正、1829~1909年)の出仕を懇願しています。龍馬が福井藩に派遣要請した由利公正とは一体何者でしょうか?
窮乏した福井藩の財政再建で手腕を発揮
新発見の手紙は1867(慶応3)年10月の大政奉還からおよそ1カ月後、同年11月10日の日付入りで、京都の福井藩邸に滞在中の同藩重臣・中根雪江に宛てたものです。「三岡兄の御上京が一日先に相成候得ハ新国家の御会計御成立が一日先に相成候」と、当時藩内の対立で自宅謹慎中だった由利が、新政府に参加できるよう強く求める内容が書いてありました。 龍馬が見込んだ由利公正とはどんな人物だったのでしょうか。福井藩士の三岡家に生まれた由利は、福井を訪れた熊本藩士・横井小楠から財政学などを学び、藩主松平慶永(春嶽)に見出され、橋本左内らと藩改革に当たります。産業奨励の責任者となると、藩札発行のほか、長崎、横浜に今のアンテナショップのような藩直営店を置き、オランダなどへ生糸を輸出。販路を開拓し、窮乏していた藩財政を見事に立て直しました。
龍馬とは大変気が合った
先見の明を持つ者同士、由利と龍馬は大変に気が合ったと言われています。攘夷で日本中が揺れていた1863(文久3)年には、龍馬が福井の自宅を訪ね、横井小楠とともに国の将来を語り合いました。大政奉還後の10月末には早速、福井の由利を訪ね、早朝から深夜まで延々と新政府について議論。そのとき龍馬は、謹慎中の由利に付いていた立会人の目を気にすることもなく、「三岡(由利)、話したいことが山ほどあるぜよ」と叫んだ、と伝えられています。その後、京都に戻って間もなく書いたとみられる土佐藩重臣・後藤象二郎に宛てた手紙の草稿にも、新政府財政の話で名を挙げ、手腕を高く買っていました。