阿川佐和子「チラリ富士山」
阿川佐和子さんが『婦人公論』で好評連載中のエッセイ「見上げれば三日月」。阿川さんはNHKのドラマを観ていると、しばらく大阪弁が抜けなくなるそうで――。 ※本記事は『婦人公論』2024年3月号に掲載されたものです * * * * * * * 寒い季節の楽しみの一つに、富士山鑑賞がある。 特別にどこかへ出かけるわけではない。朝、起きて、ベッドから這い出して、カーテンを開けたときに富士山の姿が見えると、それだけで晴れやかな気持になる。よし、今日も頑張るぞ。エネルギーが湧いてくる。 昨春に引っ越しをして、久しぶりに西向きの窓に恵まれた。親元を離れて一人暮らしを始めて以来、途中、アメリカのワシントンD.C.で一年間生活をしたことを除くと、七回目の引っ越しとなった。 過去六ヶ所の住まいのうち、富士山を望むことができたアパートは前半の四ヶ所。今度の引っ越し前に住んでいたところと、その前の部屋は南東向きで、富士山も夕日も拝むことができなかった。 物件を探すとき、家賃、環境、日当たり、立地など、他の条件を優先すると、どうしても「西の眺望」を諦めざるをえない事態となったからだ。富士山と夕日を見ないで過ごした月日が二十年。実に二十年ぶりのシアワセを、今、まさに満喫している最中だ。 とはいえ、周囲に高層ビルが林立しているため、我が富士山は、西方面に立つ細長いビルの横から、かろうじて右半分がちょこっと見える程度である。 やっぱり富士山は遠いなあ。 しかも冬とはいえ、時間が経つにつれてモヤが増えていくのか、早朝のときのようにはくっきりはっきり見ることが叶わない。 まして暖かい季節は、乾燥している冬場とは空気の様子が違うらしい。富士山自体がモヤや雲の陰に隠れ、見えることは稀である。
ほんの限られた冬の富士山鑑賞を、今こそおおいに楽しんでおかなければ損をする。 そう思っていた矢先、用事で朝早く、池袋から埼玉方面へ向かう特急に乗った。それがはたしてどこらへんだったかの記憶は曖昧なのだが、おおかた所沢か入間のあたりだったのではないかと思われる。 突然、富士山が現れた。しかも、なんと雄大な姿であることか。 え、もしかしてここらへんのほうが、都内の我がマンションより富士山に近いのかしら? ウチから見える富士山の倍の大きさだ。ちょっと悔しい気持になった。静岡県や山梨県に住んでいるならまだしも、埼玉の人たちも、こんなに美しい富士山を毎日、楽しむことができるのか。ちょっと嫉妬した。 そんな驚愕事件からしばらくのち、ゴルフ仲間の紳士と、やはり早朝、同じ車でゴルフ場へ向かっているときのことである。前方に雪をかぶった富士山があった。しかもその富士山、前面にそびえ立つ、少し小さな山の黒い稜線と左半分が見事に重なっていた。まるで白い富士山が、黒いショールを片方の肩にかけていそいそお出かけするような姿に見える。色っぽい。 「おお、これは珍しい光景ですね。スマホに撮っておこう」 紳士はすばやくご自身のスマホを取り出して、タイミング良くカシャッと撮影なさった。