誰も信じなかったプレイステーションの実現は全世界を加速させた。ワクワクしっぱなしの30年間を“プレステの父”が懐かしく振り返る。東京ゲームショウ2024基調講演リポート【TGS2024】
2024年9月26日~29日に開催される“東京ゲームショウ2024”(26日、27日はビジネスデイ)。その公式ステージの最初を飾るイベントとして、基調講演“ゲームで世界に先駆けろ。”が行なわれた。 【記事の画像(29枚)を見る】 当講演の講演者は、プレイステーションからプレイステーション3まで開発を主導した“プレイステーションの生みの親”であり、アセントロボティクス代表取締役CEO、ならびに近畿大学情報学部学部長(教授)である久夛良木健氏。モデレーターはファミ通グループ代表の林克彦氏が務めた。 さまざまな伝説を打ち立てた家庭用ゲーム機“プレイステーション”30周年を記念し、発売当時の思い出や、ゲームだけにとどまらずテクノロジーはどう進化していくのかという、未来の予想などが久夛良木氏の口から語られた。 当講演の講演者・久夛良木健氏(左)/司会進行を務めた林克彦氏(右) 伝説のハード、その始まりは“塩対応” 講演は、プレイステーション発売の1994年の話ではなく、その前年にあった出来事の話からスタート。 それは1993年の3月頃の話。久夛良木氏は当時のプレイステーション企画立ち上げメンバーとともにありとあらゆるゲームメーカーを回って熱い想いを共有しつつ、ゲームハードに期待していることを忌憚なく聞くべく、100社近くを回ったのだという。だが、その結果は「塩対応でした」。 苦笑交じりに語る久夛良木氏。 どの会社でも「おやめなさい」、「どこも同じことをやっているけどダメ」などと厳しい意見をもらったという。他社はもちろん、ソニー社内でも成功するとは誰も考えない風潮だった。失敗すると考える理由もいろいろ聞いたが、いまとなってはサジェスションに富んだ内容で非常に勉強になったという。 当時、久夛良木氏たちのチームはこれから5年、10年どころか20年、30年と、ゲームのテクノロジーはすごい勢いで進化すると考えていた。その進化についていくのではなく、自分たちがけん引していこうという熱い想いがあり、企画のプロトタイプを各社に伝えて回ったわけだ。 それがほとんど塩対応に終わったというのは、各社が10年、20年先を見据えたそうした想いに至っていないという証拠でもあり、うれしい要因でもあったという。当時のゲームはまだ子どもの手に届く“玩具”として既存のパーツから作られているようなもので、そもそも開発環境のPCもパワーがなく、そう変わるものではないという固定概念がはびこっていたのだ。 当時はアーケードゲームを作る人は家庭用機に興味がなかったりと、セグメントもされていたという。 実際、『リッジレーサー』(1993年/ナムコ)など当時の最先端であるアーケードゲームにしても、基板の性能には限界があり、新作を生み出すにはゲーム自体のおもしろさで補う形になっていた。久夛良木氏のチームは、そんな状況に一石を投じたかった。 現在では当たり前のコンピューターの劇的な進歩を、さまざまなところで使えるものと予想し、新たなドメインを生み出すことを夢見た。ゲームではなく、“コンピューターエンタテインメント”を作りたいと考えたのだ。ここでいうエンタテインメントはゲーム開発者だけのものではなく、映像クリエイターなどさまざまなエンタテインメントの従事者が一緒に熱狂し、作り上げていくものを理想としていた。 こちらのスライドは、1993年当時に久夛良木氏が制作した資料の一部とのこと。 当時のエンタテインメントの最先端といえば、ハリウッド。映画『トータル・リコール』では、1台数千万円もするワークステーションをベースに、ノンリアルタイムで映像を作っていた。ソニー・ピクチャーズエンタテインメントでも、1本の映画を作るために1年、2年と延々とレンダリング作業が続いていた。 それがいまや、多少精度は悪くともリアルタイムで動く映像が作れる時代である。誰がこれを予想できただろうか。 そんな時代に、ゲームはリアルタイムにインタラクトできることが条件であり、コントローラーを触ったらすぐに技が出たり、すぐに視点が変わったりする必要があると久夛良木氏たちは考えた。当時の風潮的に、誰にもできないと考えられて当然。できたとしても、せいぜいCD-ROMに画像を焼きつけ、紙芝居のようにめくっていく程度だ。 ならば自分たちがリアルタイムに動かせるコンピューターを世界で最初に作ろうと動き始めたのが、初代プレイステーションのプロトタイプである。演算などの面で“リアルタイムに近い”程度ではダメ。ハリウッドが1億円出してもできなかったことへの挑戦だった。 誰も信じなかった夢が、世界を10年単位で早めた 社内だけではなく世界各地の技術者たちといっしょにやろうと、プレイステーションのプロジェクトは動き出した。まだ周囲は疑念の目を向けていたが、そんな潮目が変わる日が来る。プロトタイプで作ったビデオをナムコに持ち込んだところ、「これが動くんですか」といきなり身を乗り出して見入ってきたチームがあった。 その後、秘密保持契約などを改めて結び、より深い話をしたところ、「うちのアーケード基板を全部これに変えたほうがいい」とまで言わしめたという。コストが安いうえ、アーケードゲームがそのまま平行移動で家庭用機で遊べるようになるといった、絶大なメリットを見出されたのだ。これがきっかけとなり、一部のゲームソフトメーカーの間で「とんでもないことが起こりそうだぞ」という噂話が広がり始める。 この話が『リッジレーサー』や『鉄拳』(1994年/ナムコ)の誕生につながっていったわけだ。 ハリウッドのとある映像クリエイターは「これは時代が10年早まる」と評し、ほかにも多くの分野のクリエイターたちがプロジェクトに合流。ゲーム開発会社からも「ぜひ作ってみたい」と申し出てくれる会社が増えていく。説明にビデオや写真だけを用いるのは怪しさが出てしまうとして、各メーカーを講堂に招待して4台のプロトタイプ実機でのデモプレイも実施した。 リアルタイムで陰影なども表現される。これCD-ROMからデータを読み込みながらではなく、メモリー上で実行するというのが当時は信じがたい事実だった。 衝突による物理演算やドロップシャドウの生成もリアルタイムで行なわれる。当時のコンピューターを知る人間は、誰もが絶句した。 デモプレイのあと、よくしゃべる人が多いはずのゲームクリエイターが全員黙り込んだまま帰ったのを見て失敗かと思ったところ、翌日から問い合わせの電話が殺到。当時のJAMMAショーでセガが『バーチャファイター』を発表し、リアルタイム3Dグラフィックをこの家庭用機が動かしているという理解が追い付いたことも追い風になった。 開発ツールについても当時のナムコと相談してオープンライブラリやマニュアル、ソースコードを用意するなど、それまでになかった施策もここで初めて行なわれた。 『闘神伝』(1995年/タカラ)が発売されると、さらに世間に衝撃が走った。同作のヒロインであるエリスの衣装や、地面にしっかりとテクスチャーが付いていること。このタイトルが7、8名によって数ヵ月で開発されたこと。そして発売がプレイステーションの発売からたった1ヵ月後であったこと。何もかもが衝撃的すぎたのだ。 プレイステーションでのゲーム開発は難しくないのではないか。当時はゲームといえば2Dと考え、3Dでゲームを作るのに意味を見出せなかった開発者も多かったが、さすがにじっとはしていられなくなった。社長がまだ静観していても開発者が『パラッパラッパー』(1996年/七音社/ソニー・コンピュータエンタテインメント)を作り出すなど、各社の社内からつぎつぎと手が挙がったという。 発売当時のテレビCMも鑑賞。ゲーム画面を映すのが常識だったゲームのCMで、実写で「1・2・3」と発売日を印象付けるCM群もまた異例だった。 1994年12月3日のプレイステーション発売日の前日には、ゲーム開発関係者を集めての前夜祭も開催。当日になると、新宿や秋葉原で2日間並ぶ長蛇の列ができているという連絡が入る。その行列を見た久夛良木氏やゲームクリエイター諸氏は、感動に震えたという。 その後、一般開発者をも巻き込む一大企画なども展開しつつ、プレイステーション2の時代が来る。さらにリアルタイムで処理できる流体力学などの描画要素が充実し、世界中にふたたび衝撃が走る。結果、あらゆる名作ゲームが世界中からプレイステーション2へと集まり始めた。 加速はまだまだ止まらない。プレイステーション3では物理演算のリアルタイム処理機能が爆発的に向上。よりリアルな世界を計算可能になった。 プレイステーションの進化は、当初のチームが目指した通り、留まるところを知らなかった。 いまは当たり前に見えるかもしれないが、当時はこれをリアルタイム演算で動かしているなどと信じる人のほうが少なかった。 こうして圧倒的な表現力を手に入れたことで、ゲーム開発は子どものためというより、自分たちが遊びたい、大人たちが楽しむエンタテインメントへと変化していった。PCが高性能化していったことも手伝い、PCゲームとの融合も進行していく。 プレイステーション4の時代に入ると、大人向けのエンタテイメントという側面はさらに加速。2020年の時点での調査では、コンピューターゲームプレイヤーの平均年齢が34歳まで拡大した。加えて老人世代でもプレイするのが当然の娯楽となり、世代、性別を問わないエンタテイメントとなった。 あらゆるエンタテイメントを、市場や金額の面でもゲームは凌駕するに至った。久夛良木氏はここまで市場が拡大したことに感謝を述べたが、林氏からはこれも1994年に久夛良木氏たちが動いてくれたからこそと賞賛した。 久夛良木氏は自分たちは時間を数年早めただけだとも述べたが、そうだとしてもここに至るまで、何十年分を加速したのか想像もつかない。 計算可能なすべての世界がひとつになる未来 ゲームはプレイするものであると同時に、作るものとしても世界に広がり、いまや世界中のゲームスタジオからメガヒットタイトルが生み出されている。若い開発者たちがこれだけすごいゲームを作り始めていることに、久夛良木氏は彼らがつぎの時代を引っ張ってくれることを確信したという。 つい最近、素晴らしいセールス記録を叩き出した『黒神話:悟空』。開発会社Game Scienceのデビュー作であるという点も驚きだ。 では、つぎに待っている進化とは何か。氏が思い描くのは、“リアルタイムコンピューティング”の時代だ。生成AIが自然言語を話しながら、かつリアルタイムでいろいろなものを作るというのは、インタラクティブかつエンタテイメント以外の何物でもない。 ハードの進化とともに、ゲームジャンルもさまざまなものが融合していく。あらゆるものが計算可能になることで、やがては当講演を配信で見ている人も、モニター越しでも目の前の講演者の存在を感じ取れるような時代も来るかもしれない。Zoomなどの通話ツールもまだまだ20世紀の概念であり、生成AIなどが関わることで、すべての計算可能な世界はより進化していくという。 かつての映画『2001年宇宙の旅』では、現代にある技術がいくつも描かれており、制作陣が未来人だったのではと疑うほどだった。そんな同作に登場する“モノリス”をAIとするなら、人類に4度、爆発的な進化をもたらす。その4度目ではAIと融合した超人類が生まれるが、久夛良木氏はまさに現代はその段階にあると述べた。 人間とAIが融合する時代になり、リアルの世界がすべて計算可能になる。計算可能な世界は実際にはリアルではなくてもよく、ファンタジー世界でも、ゲームの世界でも、時間軸を超えた世界でもいい。人間がそれぞれ違う脳や考えかたを持つように、AIがそれぞれ個性を持ってもいい。そんな世界こそが、久夛良木氏が夢も含めて思い描く未来だという。 ゲームや映画はファンタジーの世界だが、全世界が計算可能になるなら、現実世界にだっておもしろさは見いだせるようになるはず。現実の産業さえもエンタテイメントに融合し、巨大なビジネスが生まれる可能性もあるという。 講演の最後には久夛良木氏から、現代のゲームクリエイターや次世代のクリエイターを目指す人たちに向けて、いまのチャレンジ、イマジネーションのものすごさを賞賛するメッセージが贈られた。同時に配信を見ている視聴者に向けても、「皆さんがこれからの未来を作るんですよ」と期待を込めたメッセージを発して結びとした。 氏が確信し、思い描いている未来がこうして我々にも共有されたいま、この世界がリアルになっていくビジョンも共有されたかと思う。我々を待つ未来は、どれだけワクワクできるものになるのか。いまはひたすらに想像して楽しみにしたいところだ。