ムエタイ王者の「生贄(いけにえ)」にされかけた日本最強空手家・長田賢一がくぐり抜けた修羅場
【連載・1993年の格闘技ビッグバン!】第16回 立ち技格闘技の雄、K-1。世界のMMA(総合格闘技)をリードするUFC。UWF系から本格的なMMAに発展したパンクラス。これらはすべて1993年にスタートした。その後の爆発的な格闘技ブームの礎を築いた老舗団体の、誕生の歴史をひも解く。 【画像】伝説のムエタイ戦士チャンプア・ゲッソンリット ■外国人選手は「生きて返すな」 ムエタイに空手家が挑戦する。 それは空手家にとって大きなロマンであり、避けては通れぬ道だった。ムエタイが"地上最強の格闘技"と呼ばれているなら、それ以外の選択肢はなかったのだ。 1964年2月には、大山道場(のちの極真会館)から黒崎健時、中村忠、藤平昭雄がタイに遠征し、ルンピニースタジアムでムエタイとの異種格闘技戦に挑んだ。極真はまだ自前の大会を開催していない時代だったので、そうすることで自分たちの力量を測れるという意味合いもあった。 その後も空手家たちはムエタイに挑戦し続けた。74年7月16日には添野ジム(のちの士道館)の物江勝広が空手衣に素手という出で立ちでルンピニーにリングイン。のちにスーパースターとなるノンカイとフリースタイルと呼ばれる異種格闘技戦的なルールで闘い、2ラウンドに左のヒザ蹴りで壮絶なKO負けを喫した。ノンカイは普通にボクシンググローブを付けての一戦だった。 80年代後半になってからもムエタイに挑んだ空手家はいる。87年4月24日には大道塾の長田賢一(おさだ・けんいち)がルンピニーで当時同スタジアム認定ウェルター級王者だったラクチャート・ソーパサドポンと対戦している。 何ヵ月も前から決まっていたマッチメークではなく、いきなり決まった一戦だった。タイは365日、毎日どこかでムエタイの興行が行なわれているようなお国柄。当日の対戦相手変更など日常茶飯事なのだ。 それから40年近くの月日が流れた。現在は総合武道「空道」を標榜する大道塾の第2代塾長を務める長田は懐かしそうに振り返る。 「当初は雑誌の取材で西(良典=のちにヒクソン・グレイシーやロブ・カーマンと闘った"北斗の覇王")先輩とタイに行って練習しようという程度の軽い気持ちだったんですよ」 そんな長田の思惑とは裏腹に試合の話はとんとん拍子に進み、ルンピニーのリングに空手王者として上がることが急きょ決まった。試合形式はエキシビションやデモンストレーションの類ではなく、3分5ラウンドの公式戦だった。試合前まで長田は空手衣をまとっていたが、実戦ではボクシンググローブをつけ、トランクスを履いていた。 体重は長田のほうが重かったが、キャリアは大人と子供ほどの差があった。ラクチャートが百戦錬磨なのに対して、長田はこれがムエタイデビュー戦だったのだ。