陰謀に明け暮れた「七日関白」藤原道兼
2月4日(日)放送の『光る君へ』第5回「告白」では、藤原道長(ふじわらのみちなが/柄本佑)の正体を知って戸惑うまひろ(のちの紫式部/吉高由里子)の苦悩が描かれた。まひろは道長を呼び出し、道長の兄・藤原道兼(みちかね/玉置玲央)の犯した罪を告白する。 ■藤原道長が思いがけず知った一族の重い罪 母を殺した藤原道兼を目にしたまひろは倒れ、寝込んでいた。6年ぶりに見た顔とはいえ、まひろは道兼の相貌(そうぼう)を忘れてはいなかった。 父の藤原為時(ためとき/岸谷五朗)は、道兼の犯した罪を今後も胸の中に閉まっておいてほしいとまひろに懇願する。自身や息子の藤原惟規(のぶのり/高杉真宙)の出世を意識しての判断だが、まひろには理解できない。 倒れた舞姫がまひろだと知った藤原道長は、まひろに文を出した。会って話したいという。 こうして、満月の晩にまひろと道長は顔を合わせた。互いの身分を知った上で会うのは、これが初めてだ。そこでまひろは、自身が倒れた本当の理由を静かに語り出した。 自分の兄・道兼がまひろの母を殺したことを知った道長は、屋敷に舞い戻り、道兼を問いただす。まひろの母殺害を認めたばかりか、殺した相手を「虫けら」などと蔑(さげす)む道兼に逆上した道長は、思わず拳を振り上げた。しかし、父の藤原兼家(かねいえ/段田安則)も承知しており、事件をもみ消したことが分かると、道長は一族の異常さに言葉を失う。 一方、長い間、心の内に留めていたものを道長に吐き出したまひろは、放心した様子で家路についた。家では、帰りの遅い娘を案じる為時の姿があった。まひろは、確執のあった父の胸で泣きじゃくるのだった。 ■兄・道隆の背中を終生追い続ける 藤原道兼は、藤原兼家の三男として、961(応和元)年に生まれた。母は藤原中正の娘・時姫。ドラマでは道隆(みちたか)、道兼、道長の三兄弟が中心に描かれているが、道隆と道兼の間には、母の違う兄弟・道綱(みちつな)がいる。 父・兼家が絶大な権力を持ち始めるとともに、道兼も当初は順当に昇進を重ねた。しかし、やむを得ないことではあるものの、兄・道隆の後塵を拝することは道兼にとって我慢のならないことだったらしい。 当時のことを描く書物には、道隆が麗しい風貌だったのに対し、道兼は「御顔色悪しう、毛深く、事の外にみにくくおはする」と評されている(『栄花物語』)。少なからず、兄に対する劣等感があったのかもしれない。 父の兼家は、娘・詮子(せんし/あきこ)と円融(えんゆう)天皇との間に生まれた皇子・懐仁(やすひと)親王を天皇に即位させ、外祖父として権力を振るうことを画策。円融天皇の譲位、花山(かざん)天皇の即位と譲位を速やかに行なうことを目論んだ。父の念願を叶えるべく奔走したのが道兼だった。 花山天皇の即位とともに蔵人(くろうど)に任じられた道兼は、天皇に接近。蔵人は秘書のような役割だから、近づき、信頼を獲得するには絶好の立場でもあった。兼家は、自身で直接、譲位するよう勧める一方で、道兼にも花山天皇に対して工作するよう指示していたらしい。 そこで道兼は、兄・道綱とともに花山天皇を騙し、強引に退位せざるを得ない状況に追い込んだ。それに伴い、花山天皇の後見人だった藤原義懐(よしちか)は引退。懐仁親王が一条天皇として即位することになったのは986(寛和2)年のことで、父・兼家は宿願であった摂政に就任することに成功した。父の言いつけ通りに事を成した道兼は、同年に参議、さらに権中納言にまで昇進した。 994(正暦5)年には右大臣に上り詰めたが、父の死後に関白に就いたのが兄・道隆であることを少なからず不満に感じていたようだ。一条天皇の即位に多大な功労のあった道兼としては、自分こそが関白に任じられるべき人材であるという自負があったのだろう。 右大臣就任の翌年となる995(長徳元)年に道隆が病死すると、道兼は道隆の息子であり、自身にとっては甥に当たる伊周(これちか)を押しのけて関白に就任。いよいよ我が世の春を謳歌しようと思った矢先、就任からわずか11日後に道兼も病死する。関白就任の頃は、すでに病魔に蝕まれていたという。このことから、後世、道兼は「七日関白」という不名誉な異名で称されることとなった。
小野 雅彦