日本人女性初の五輪メダリストは誰か? 24歳でこの世を去ったヒロインを苦しめた過労
日本陸上界の黎明期に、1人でいくつもの競技に真摯に取り組み、次々と記録を塗り替えた女性がいた。そんな彼女の姿は世界の人々にも感動を与えた。 ■日本人女性初のメダリスト 日本人女性で最初にオリンピックのメダルを獲得したのは誰だかご存じだろうか。陸上競技の人見絹枝(ひとみ きぬえ)だ。しかし、彼女の初はオリンピックのメダリストだけでなかった。 人見絹枝は、岡山県福浜村(現岡山県岡山市)で、米と当時岡山の名産品であった藺草を作っていた農家の次女として、明治40年(1907)1月に生まれた。「これからの女の子は学をつけた方がいい」という父親の考えで、絹枝は岡山高等女学校に入学。幼い頃から体が大きい割には風邪をひきやすい体質であったため、体力をつけようと片道6キロほどの道を毎日歩いて通った。 通っていた女学校ではテニスがはやっており、母親がお金を出してくれてラケットを買うことができた。絹枝はうれしくてコートの順番を待つ間も率先して球拾いをした。その結果、瞬発力が鍛えられたという。2年生の時に正選手に選ばれ、岡山県の大会では優勝することができた。4年生の時に岡山県第2回中等学校競技会が開かれることになり、この大会に陸上競技の選手としてスカウトされた。絹枝は約170cmと、女性の平均身長が150cmに満たない時代では抜きんでた高身長の上に、テニスで鍛えられた俊足があった。この大会の走り幅跳びで非公式ながら4m67cmと女子の日本新記録をたたき出したのだ。絹枝はこの大会で陸上競技の面白さに目覚めた。 女学校卒業後の進路を決めかねていた絹枝に、女学校の校長は二階堂トクヨが開いた二階堂体操塾(現日本女子体育大学)を強く勧めた。陸上競技に惹かれていた絹枝は、二階堂体操塾で競技を続けることにした。大正14年(1925)に塾を卒業した後は、後進の指導にあたることになった。ところが、医学博士で当時大阪毎日新聞社の運動部長を務めていた木下東作が彼女の父親を説得、絹枝は日本初の女性スポーツ記者となった。何かにつけて短歌を作るなど、絹枝には文学的な素養もあったのだ。 木下は、絹枝に大正15年(1926)スウェーデンで開かれる第2回世界女子競技会への出場を勧めた。当時、オリンピックに女性は参加することはできず、そのかわりに有志が世界女子競技会を開催しており、人見は日本から唯一の参加者だった。初めての世界的な大会と海外遠征に戸惑った絹枝だったが、走り幅跳びで世界新をマークして優勝、立幅跳は世界新を逃したものの優勝、100メートル走で3位などという好成績を残し、最優秀選手賞が与えられた。応援する日本人もほとんどない中、1人でいくつもの競技にエントリーし、果敢に挑戦する姿は現地の人々に強い感動を与え、各国の記者がこぞって絹枝の健闘をたたえた。以後の海外遠征でも同様の現象が起こった。 この2年後に開催されるアムステルダムオリンピックでは女子の参加が認められ、絹枝は国内の大会を勝ち抜いて紅一点の参加選手に選ばれた。昭和3年(1928)、絹枝は女性としてオリンピックに参加した最初のひとりとなったのだ。しかし、メダルを期待された100mではまさかの準決勝敗退。悔しくてここのままでは帰れないと800mに参加して2位となり、日本人女性として初めてのメダリストとなった。なお、平成4年(1992)のバルセロナ大会で有森裕子がマラソンで銀メダルを取るまで、陸上競技では日本人女性唯一のメダリストだった。 帰国後の絹枝は何もしたくないと一時競技を離れたが、昭和5年(1930)、プラハで開かれる第3回世界女子競技会に自分以外の選手たち5人を派遣するため資金集めに奔走することになった。新聞記者である絹枝には会社での仕事もあったが、それでも出発までには目標の15000円を超える金が集まった。 ところが、プラハでは雨が降り続く中競技が行われ、絹枝は風邪をひいてしまう。それでも走り幅跳びで優勝、槍投げで3位、3種競技で2位、400メートルリレーでは4位に入った。 しかし、これで遠征が終わったわけではなかった。ヨーロッパを横断して帰国までの間各地で開かれた競技会に風邪が治りきらないまま参加、帰国後もゆっくりと静養できぬまま講演会などが休みなく続き、昭和6年(1931)3月6日、ついに絹枝は倒れてしまう。肋膜炎だった。3月25日には大量の血を吐き、大阪帝国大学附属病院に運ばれ、「軽井直子」という変名を使って入院。絶対安静の状態が続き、ごく一部の親しい者しか近づくことができなかった。 このころ見舞いに訪れた知人たちは、「これがあの人見絹枝か」と思うほど色白くか弱い姿に驚いたという。担当医は絹枝と同郷であったため格別の好意を持って治療にあたっていたが、病状は悪化の一歩を辿り、8月2日、わずか24歳で人生の幕を閉じた。それはちょうど2年前にアムステルダムオリンピックの800m走で2位に入り、日本人女性初のメダリストとなった日でもあった。
加唐 亜紀