昏睡状態だった大学教授を救った、必殺仕事人ウイルスをからだの中にぶち込んで細菌を壊滅させるという究極の治療法とは
「必殺仕事人」としての性質を持つウイルスがある。生体内では、悪い細菌が増えないように「監視役」として働いていると考えられている。アメリカでは実験的にファージを使って、抗生物質が効きにくい多剤耐性菌を選択的に殺す試みが進んでいる。 【画像】古代エジプト王のミイラに天然痘ウイルスの痕跡が! ファージセラピーはどのようなものなのか。 【※本記事は、宮坂昌之・定岡知彦『ウイルスはそこにいる』(4月18日発売)から抜粋・編集したものです。】
細菌に潜むウイルス「ファージ」
母親由来のウイルスに加えて、一部のウイルスは環境に由来する。そのようなウイルスの多くは、実はわれわれの細胞内にいるのではなく、マイクロバイオーム中の細菌の内部に存在する。その典型がバクテリオファージ(以下ファージ)とよばれるものだ。 バクテリオはbacteria(細菌)、ファージはギリシャ語のphagos(食べる)に由来する言葉で、一部のファージ(後述)が細胞に感染すると細菌が食い尽くされるかのように死滅するので付いた名前だ。ファージは、いわば細菌に寄生するウイルスで、体内で細菌が存在するところには必ず存在する。 ファージには、ゲノム(遺伝情報)としてDNAを持つものとRNAを持つものがある。その形状は、まるで月面着陸する宇宙船のようであり、頭部と尾部に分かれている。頭部にはファージのゲノムが収納され、尾部にある「足」を介してファージが細菌表面に取り付くと、細菌内にファージのゲノムが注入される。すると、細菌がもともと持っている酵素の働きによってゲノムが複製され、細菌内で子孫ファージが大量に作られ、やがて細菌の外に放出される。 自分が増えるときに細菌を殺してしまうファージは溶菌性ファージとよばれる。ファージが特定の細菌の菌体内に入り込むと、そこで自分自身を複製して数を増やし、子孫ファージは宿主細菌の細胞壁を壊す溶菌酵素を作り、膜を溶かして(=細菌を殺して)外に出てくる。そして次の細菌に感染して同じ過程を繰り返し、感染の範囲を次第に広げていく。 このようなファージは特定の細菌を殺す「必殺仕事人」としての性質を持つ。このように書くと、人体にとって有害な「凶悪犯」のように思われるかもしれないが、生体内では、むしろ悪い細菌が増えないように「監視役」として働いていると考えられている。アメリカでは実験的にファージを使って、抗生物質が効きにくい多剤耐性菌を選択的に殺す試みが進んでいる。その劇的ともいえる例を紹介しよう。 それは2015年秋のことだった。カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)精神科教授のトム・パターソン(68歳)は、エジプト旅行中に突如、背中に強い痛みを覚えた。彼は糖尿病持ちだったことから、おかしな細菌に感染したのではないかと心配して病院を受診すると(註:糖尿病患者は病状が進むと感染症に罹りやすくなる)、重度の急性膵炎と診断され、ただちに抗生物質投与を受けた。しかし、効果がまったく見られず、容態は悪くなる一方で、急遽、ドイツに移送された。 原因菌の探索が行われた結果、多剤耐性菌の一つ、アシネトバクター・バウマニ(Acinetobacter baumannii)が検出された。この細菌は、いわゆる日和見感染(=健康な状態では病気を発症しないような弱い病原性の微生物感染により病気を発症すること)を起こす病原体のひとつで、土壌や水の中に普通に存在し、健常人では問題を起こさないが、糖尿病などの慢性疾患のために免疫力が落ちた人では感染を起こすことがある。そこで、この菌に有効とされる抗生物質がパターソンに投与されたが、効果はなく、病状はさらに悪化し、ついには勤務先のアメリカUCSDに移送され、ICU(集中治療室)治療を受けるにいたった。 この間、パターソン夫人はUCSD医学部の健康科学部の副学長で医学知識があったことから、藁をもつかむ思いで新しい治療法に関する文献を探し回り、ついに見つけたのがベルギーの研究グループによる論文「アシネトバクター・バウマニに対して溶菌活性を持つ新しいファージの解析」であった。 ただ、この論文では試験管内でアシネトバクター・バウマニを殺せるファージが同定されていたものの、その性状が一部明らかにされただけであり、臨床応用できるかどうかはまったく不明だった。 しかし、夫を想うパターソン夫人は、主治医のスクーリー教授にこのファージが治療用に使えるかどうか調べてほしいと懇願した。一方、主治医側も今の抗生物質療法ではパターソンを救える見込みがほぼなかったことから、討議に討議を重ね、ついにスクーリー教授は「ルビコン川を渡る」決断をした。急いで、前記の論文を書いたベルギーの研究グループからファージ・ライブラリーを入手し、その中から特にアシネトバクター・バウマニに対して溶菌活性が強いファージを数種類選別してそれをカクテルとしてパターソンに投与する準備をし、同時にFDA(アメリカ食品医薬品局)から新しい治療を行うための許可を得たのである。 2016年3月15日、このファージカクテルがパターソンの腹腔内に投与され、さらにその2日後には静脈内にも投与された。当時、彼は重度の肝障害、腎障害を起こしていて昏睡状態だったが、ファージ投与から時間が経つにつれて容態は次第に快方に向かうとともにやがて意識が回復し、2016年8月12日にはついに無事に退院するにいたった。ファージセラピーの実施期間は合計59日間だった。これは、ヒトに対して行われたファージセラピーで劇的な効果が得られた一例である。 その後、2022年に出たメタ解析(これまでに出た論文を総合的に解析したもの)論文によると、世界中で165名の多剤耐性菌感染患者がこの治療法を受け、約15%では効果が見られなかったものの、約85%で感染が有意に改善あるいは感染が軽快したとのことである。現在も多剤耐性菌感染に対するファージセラピーの有効性の検討が続いている。 ファージセラピーの良いところは、薬剤を使用するよりも細菌に対する選択性が高く、かつヒトには感染できないため、直接的な悪影響を及ぼしにくい点にある。パターソンの例を見ても明らかなように、肝障害・腎障害は投薬の大きな妨げとなるが、ファージセラピーにはこの点においても躊躇なく適用できる。 欧米ではこの溶菌性ファージの「選択的な」殺菌性を利用したファージ製剤がすでに商品化されていて、食肉の加工などの際に実際に用いられている。たとえば、リステリア菌(細菌の一種で、食肉、乳製品や野菜などに付着して乳幼児や妊婦、高齢者に食中毒症状を起こす)による汚染が多い食肉やその製品を包装する前に、リステリア菌を死滅させる溶菌性ファージ6種類を混合したものを表面にスプレーして殺菌するというものだ。 「毒をもって毒を制す」ではなくて、ファージを「善玉」として機能させて、「毒=食中毒を起こす悪玉細菌」を抑えるというわけである。この場合、ファージはリステリア菌だけに入り込むので、ほかの細菌までやっつけることはなく、「選択的な殺菌剤」として機能する。ほかの微生物までやっつけてしまうと、たとえば乾燥熟成による美味しい牛肉は食べられない、ということになる。 * 私たちのからだは一見きれいに見えても実はウイルスまみれだった! 宮坂昌之・定岡知彦『ウイルスはそこにいる』(4月18日発売)は、免疫学者とウイルス学者がタッグを組んで生命科学最大のフロンティアを一望します!
宮坂 昌之/定岡 知彦