【濱口竜介『他なる映画と』】蓮實重彦が映画批評家たちは嫉妬を抱くべしと言った映画批評【群像WEB】
カンヌ、ベルリン、ヴェネツィアの国際映画祭、そしてアカデミー賞を制覇した、映画監督・濱口竜介。はじめての映画批評集である『他なる映画と』(インスクリプト刊)を、蓮實重彦はどう読むのか。 (群像2024年12月号に掲載された『ショットとは何か 歴史編』刊行記念対談「「見ること」と「見逃すこと」」の一部を再編集したものです)
唯物論者としてのブレッソン
蓮實:ところで、わたくしは、濱口さんから宿題を出されている立場の人間です。事前に濱口さんの『他なる映画と 1・2』の最後のロベール・ブレッソン論(「ある覚書についての覚書──ロベール・ブレッソンの方法」)を読んでおくようにとのご指示を頂戴していました。 濱口:お時間がないと思っていましたが、もしよかったらあれだけでもとお伝えしました。 蓮實:実際、かなりの長さのそのテクストを読んでびっくりしたのは、濱口さんがブレッソンを、徹底した唯物論者として再登場させてしまったということです。 濱口:それがまさに文章で目指していたことです。ありがとうございます。 蓮實:彼自身は、カトリック信徒ですから、神のことを考えるなり無限について思考するなりしているはずですが、濱口さんは冒頭から自分はブレッソンを「脱-神秘」的な形で見るのだと宣言しておられる。それは、或る意味でごく普通のことだと思ったのです。 ところが、「脱-神秘」的であるどころではない。濱口さんは、ブレッソンを徹底した唯物論者として再登場させてしまった。それには、びっくりしました。こんなことをさせておいてよいのか、若い映画批評家たちが言うべきところを、そっくり映画作家たる濱口竜介にとられてしまった。それでいいのかという強い危機感を覚えました。あれは批評的なテクストとしてもすごい。何字ぐらいあるわけですか。 濱口:七万字ぐらいですかね。 蓮實:唯物論者として我々の前にブレッソンを再登場させるという批評的な行為を一人の映画監督に許していいのか。映画批評家たちは嫉妬以上の思いを込めて、こいつを倒さなきゃいけないという気がしました。 濱口:倒さなくても(笑)。一緒にやっていきましょう。 蓮實:本当にすばらしいテクストでした。 濱口:ありがとうございます。本当に光栄です。ただ、「再登場」という言葉をあえて誤読しますと、唯物論的アプローチはブレッソンが映画でしていることですが、私の前に文章でそれを試みたのは蓮實さんだ、ということです。蓮實さんが『ショットとは何か 実践編』のほうに収められている「リュミエール」時代に書かれた「緋色の襞に導かれて ロベール・ブレッソンの『ラルジャン』」という文章は、いつものように自分は何も見ていなかったと思わされる、襟を正される『ラルジャン』(1983)の批評でした。蓮實さんがまさに唯物論的に、例えば寡婦とイヴォンの間の交流みたいなものを、全く心理的に捉えることなく、運動と物によって語るブレッソンの手つきを浮かび上がらせています。それと同じ精神を、違うやり方でやらなくてはいけないと思って書いていたので、言っていただいたことは本当に光栄です。