「花いちもんめ」や「じゃんけん」まで、「子どもの遊び」は世界共通!…「遊び」にひそむ編集
考える力をみるみる引き出す実践レッスンとは? 自分で「知」を生み出すにはどうすれば良いのか、いいかえ要約法、箇条書き構成、らしさのショーアップなど情報の達人が明かす知の実用決定版『知の編集術』から、本記事では〈20世紀がわれわれに残した参考書のない宿題…「問題の解決方法がわからない問題」をどう解くか? 〉にひきつづき、子供の遊びにひそむ編集についてくわしくみていきます。 【写真】「他人のふんどしで相撲をとる」、外国人に伝わるようにするならどう訳す? ※本記事は2000年に上梓された松岡正剛『知の編集術 発想・思考を生み出す技法』から抜粋・編集したものです。
子供の遊びにひそむ編集
私は京都の呉服屋に育った。住まいと店とが同じ家の中にある。いきおい店のお兄さんがたと遊んでもらいたくなるのだが、なかなか相手にしてもらえない。ちょっとは遊んでもらっても、すぐに「はい、ここまでね」と切られてしまう。キャッチボールでもトランプでもこれが辛かった。 もっと遊んでもらうにはどうすればいいか。キャッチボールやトランプよりももっとおもしろいことがあればいいのか。それはどんな遊びなのか。そんなことを空想するようになり、やがてはだんだん自分で工夫をして遊ぶようになった。そのうち、夢中になっている遊びを自分で実況放送するのが好きになった。 雪見障子のガラスを放送室に見立て、縁側に坐って相撲ゲームや野球ゲームを操作する。その状況を「いま栃錦と若乃花、立ち上がりました」「あっ、川上ホームラン!」「小西さん、いまのボールはどうですか」というぐあいに、自分でまた実況放送をする。それが好きだったのだ。 遊びからは多くの興味深いことが見えてくる。 ただし大人の遊びではなく、子供の遊びだ。大人の遊びは戦争や不倫やギャンブルに象徴されるように、もはや遊びの本質を失っている。それにたいして子供の遊びは子供っぽくて純粋だから興味深いのではなく、むしろ原型としての大人の遊びをのこしているから興味深い。 私が世界の遊びをしらべはじめたのは、いったい世界の子供遊びは互いに似ているのかどうかという関心をもったのがきっかけだった。 結論をいえば、子供の遊びは世界中でたいへんよく似た傾向をもっていた。ルールもよく似ているし、罰のとりかたも似ている。鬼になるなりかた、交代のしかたもそんなに変わりない。人数の束ねかたや複雑さかげんも共通することが多い。異なる点は地域によって呼びかたや名付けかたがちがう点である。 そういったネーミングには地域の文化の特質が如実に反映される。とりわけアジアとヨーロッパとはちがっている。しかし、それ以外はかなり近いものがある。 たとえば、お隣りの韓国では遊びのことをノリというのだが、それをユンノリ(柄戲)といえば地面に29個の点を十字に並べたところに木片を投げて遊ぶ双六めいたものになり、チャジョンノリというと東西に青年が分かれて神輿を押しあってその年の運勢を占う遊びになる。チンノリはいわゆる「陣取り」をさす。韓国と日本で似ているだけでなく、このようなノリはだいたい世界に共通する遊びなのである。 異なっているのは文化と風土のぶんである。日本の「子とろ子とろ」はカンボジアではチャップ・コーンヌ・クラエンといって「トンビのひな捕り」という名前になっている。一人を親鳥に、もう一人をトンビにし、残りがヒヨコになる。各自がマフラーのようなクロマーという布を腰に結び、親鳥が一人のヒヨコにそれをつかませる。ほかのヒヨコは次々に前のヒヨコのクロマーをつかみながら、トンビが要求する「子とろ」に答えるというものだ。さすがにトンビで遊べるのは風土が反映している。 これが日本では花鳥風月の国らしく「花いちもんめ」になっていく。 いわゆる「じゃんけん」(拳)もアジアには広く分布する。昭和以降の日本ではほとんどグー(石)・チョキ(鋏)・パー(紙)で勝負を争うが、江戸時代では蟲拳といってヘビ(親指)・ナメクジ(薬指)・カエル(人差し指)で遊んだり、庄屋とキツネと鉄砲でそれぞれのジェスチャーをしながら遊ぶ庄屋拳もさかんだった。三人がそれぞれの情報や信号を出しあうというところに特徴がある。 韓国ではカウイ・パイ・ポが「じゃんけん」で、紙が布になる以外は日本とまったく同じ、タイのジャンジィも日本と同じになっている。 庄屋拳と同じなのはビルマの指揮官・兵隊・トラの三すくみ、インドの象と人間と蟻の三すくみである。数学にゲーム理論というおもしろい分野があるのだが、ゲーム理論の一部はこうした遊びの中の三すくみ問題をうまく応用したにちがいない。 このように世界の遊びをいろいろ見ていくと、示唆に富んだしくみがいろいろ観察できる。きっと子供の遊びには、子供たちだけがよく知っている情報量の度合とか編集度の具合ともいうべきものがあるのであろう。そうおもって、私は子供の遊びを分類し、そこにとびかう情報の度合を整理し、遊びにおける編集度をしらべてみた。 あれこれ検討してみると、子供たちの遊びにはいくつかの基本型があることが見えてき た。しかも、それは編集術にたいへん役に立つ。 * つづき〈じつは「子どもの遊び」は3つのパターンに分かれていた…子ども遊びの極意とは? 〉では、子供遊びの基本型についてくわしくみていきます。
松岡 正剛