ソフトバンク最強リリーフ陣誕生秘話 勝利の方程式「SBM」はいかにして結成されたのか
── 実際にメディカルチェックで右肩のコンディションが悪いことが判明し、開幕までに肩のケアに追われていたようですね。 高山 攝津はプロ1年目から27歳になる年齢で、「即戦力にならないと......」と必死だったろうと思います。キャンプ中のブルペンではあまり目立たず、周囲の評価も高くはありませんでした。でも、実戦形式からオープン戦に入るにしたがって、抜群のコントロールを披露するようになりました。球速はそこまで速くなくても、右打者に対してアウトローの真っすぐで見逃し三振がとれる。独特のショートアームから正確なコントロールを武器にして、オープン戦でしっかりと結果を残していきました。7回を任せたのも、彼が自分でつかみとったポジションなんです。シーズン中盤からはスピードも出てきました。 ── 肩の状態が上向いたのでしょうか。 高山 シーズン中でもトレーニングを並行していて、ユニホームが筋肉でパツパツになっていました。キャンプ中とは体つきが変わって、マウンドでの貫禄が出てきました。本人の努力の賜物(たまもの)でしょう。 ── 攝津、ファルケンボーグ、馬原の3投手による勝ちパターンは、それぞれの頭文字をとって「SBM」と呼ばれました。 高山 2008年の最下位から翌年にAクラス(3位)に入れたのも、3人の力が大きかったと感じます。秋山監督とは「7~9回に野手も納得させるピッチャーをつくらないといけない」と話していましたが、その考えどおり成長していってくれました。 つづく 高山郁夫(たかやま・いくお)/1962年9月8日、秋田県生まれ。秋田商からプリンスホテルを経て、84年のドラフト会議で西武から3位指名を受けて入団。89年はローテーション投手として5勝をマーク。91年に広島にトレード、95年にダイエー(現ソフトバンク)に移籍し、96年に現役を引退した。引退後は東京の不動産会社に勤務し、その傍ら少年野球の指導を行なっていた。05年に四国ILの愛媛マンダリンパイレーツの投手コーチに就任。その後、ソフトバンク(06~13年)、オリックス(14~15年、18~23年)、中日(16~17年)のコーチを歴任。2024年2月に「学生野球資格」を取得した
菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro