私たちがじつは知らない「日本人の姿」…庶民は「移動が多かった」という「意外な事実」
『忘れられた日本人』で知られる民俗学者・宮本常一とは何者だったのか。その民俗学の底流にある「思想」とは? 「宮本の民俗学は、私たちの生活が『大きな歴史』に絡みとられようとしている現在、見直されるべき重要な仕事」だという民俗学者の畑中章宏氏による『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』が6刷とロングセラーとなっている。 【写真】女性の「エロ話」は何を意味しているか? 日本人が知らない真実 ※本記事は畑中章宏『今を生きる思想 宮本常一 歴史は庶民がつくる』から抜粋・編集したものです。
「移動」からみた列島文化
日本人は、稲作に携わってきた人口が統計的にも多数を占めたことから、移動が少なかったようにみられがちである。 しかし、宮本が記録した庶民は、移動する人びとが目立つ。それは、宮本の故郷である周防大島が、国内外を移動してきた人びとが多い島だったからである。そうした移動者の一端は、『忘れられた日本人』のなかにも描き出されている。 1950年(昭和25)、学術調査団の一員として対馬を訪れた宮本は、島の南端、豆酘の浅藻(現・長崎県対馬市厳原町)に、周防大島久賀の出身で、この村の開拓者である老人が生き残っていることを聞き、その人、梶田富五郎を訪ねた(「梶田富五郎翁」『忘れられた日本人』)。 三歳の時両親に死なれた富五郎は、叔母の知り合いの家に引き取られ、七歳のとき「メシモライ」になった。「メシモライ」は親を亡くした子どもを漁船に乗せ、漁を手伝わせながら漁師に育てる慣行で、相互扶助による救済制度だった。 対馬の海は魚で埋まっているという噂を聞いた久賀の漁師は、富五郎を乗せて博多や壱岐をまわって1876年(明治9)に対馬に着いた。 沖で転覆した豆酘の船を救助したことにより浅藻へ住むことが許され、土地を開いて納屋を建てた。潮の満ち引きを利用し、海底の石を沖に運び港を開いた。 当時、周防大島からハワイへの出稼ぎがさかんだった。ハワイでは日当50銭、久賀では13銭だったが、富五郎はここで漁師として一生暮らすと決める。漁場は豊かで、獲った魚は厳原の問屋に売り、米、味噌、煙草などを仕入れた。親兄弟を呼び寄せた人もいたため村は発展し、1897年ごろには100戸になった。 現在の日本では、国外からの移民・難民の受け入れが大きな課題になっている。こうした問題を考えるときに、私たちのうちの多くの人びとも、各地を移動してきたことに思いをめぐらせる必要があると思う。
畑中 章宏(作家)