「毎日、診療をおしまいにして大森の自宅に帰るのが、たいてい夜の十一時頃である」(レビュー)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介 今回のテーマは「名医」です *** 名医といっても大病院の医師ではない。大学病院の先生でもない。ごくありふれた小さな町の開業医。いわゆる町医者である。それでも人望があるから忙しい。 井伏鱒二の昭和二十五年に出版されたユーモアあふれる『本日休診』。 東京の蒲田の駅前にある三雲病院の三雲八春先生。院長は甥に譲っているが顧問としてまだ現役。 患者はほとんど庶民。貧しくて治療費や入院費を払えない者もいるが、老先生は分け隔てなく受け入れる。 夜中の急患にも出かけてゆくし、往診(近年、見なくなった)も厭わない。 だから、「毎日、診療をおしまいにして大森の自宅に帰るのが、たいてい夜の十一時頃である」。 産婦人科医といっても警察医も引き受けているので妊婦だけではなく、刃傷沙汰で大怪我した者も来る。 男と別れたので、腕に彫った男の名のイニシャルの刺青を手術で取ってくれという水商売の女も来る。 やくざの出入りでもあったのか、小指を詰めるので局部麻酔をしてくれという御仁までいる。 老先生はこんな連中も引き受ける。人の好さも名医の条件かもしれない。本日休診としたのに患者が次々にやってきて大忙し。実際に蒲田にいた医師がモデル。 面白い言葉が出てくる。「垂らしワイシャツ」。アロハシャツのようにシャツをベルトの外に出して着る。井伏の造語で有名になった。 昭和二十七年、渋谷実監督で映画化。主演は新派の柳永二郎。秀作だった。 [レビュアー]川本三郎(評論家) 1944年、東京生まれ。文学、映画、東京、旅を中心とした評論やエッセイなど幅広い執筆活動で知られる。著書に『大正幻影』(サントリー学芸賞)、『荷風と東京』(読売文学賞)、『林芙美子の昭和』(毎日出版文化賞・桑原武夫学芸賞)、『白秋望景』(伊藤整文学賞)、『小説を、映画を、鉄道が走る』(交通図書賞)、『マイ・バック・ページ』『いまも、君を想う』『今ひとたびの戦後日本映画』など多数。訳書にカポーティ『夜の樹』『叶えられた祈り』などがある。最新作は『物語の向こうに時代が見える』。 協力:新潮社 新潮社 週刊新潮 Book Bang編集部 新潮社
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