戦争は終わっても戦禍は続く…「日本兵1万人が行方不明」の硫黄島から「遺骨」を運んだ僕が思うこと
ジョンの「想像」
翌朝、厚労省への遺骨引渡式が東京・千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行われた。骨箱を受け取った職員が向かった先は厚労省内の「霊安室」だった。関係者によると、遺骨は正月の花が飾られたこの部屋で戦後初の本土での年末年始を過ごしたという。 遺骨をすぐに墓苑に納骨しないのはDNA鑑定のためだ。厚労省は近年、遺骨帰還を望む遺族の声に応じる形で、身元の特定に力を入れている。霊安室に安置された遺骨は鑑定用検体を採取され、申請者の中にDNA型が一致する遺族がいれば返還されることになる。 戦没者遺児は、終戦の年に生まれた人でも今や80歳手前だ。三浦さんは88歳で天国に旅立ってしまった。やがて訪れる遺児なき時代の遺骨収集事業をどうするのか。戦没者遺骨収集推進法では、遺骨の帰還は「国の責務」だと明記された。終戦80年を迎える2024年度までを遺骨収集の「集中実施期間」と位置づけるが、その後については不透明だ。 僕たちが離島する前日の12月7日に行われた現地追悼式。遺骨捜索に約30年間取り組んできた戦没者遺児の金井佳治さん(広島県)は、遺族を代表して切々とこう述べた。「収容できなかったご遺骨に対して、申し訳ない思いです。必ずやお迎えに来ることをお約束します」。 僕らが本土に帰った翌8日は、奇しくも太平洋戦争の「開戦の日」だった。ジョン・レノンの命日でもある。僕は硫黄島から本土まで1200キロ、遺骨を抱えて運ぶ役目を負いながら、ジョンが歌った「Happy Xmas (War Is Over)」の一節を時折、思い出した。 「戦争は終わるよ、そう望めばね──」 しかし、硫黄島の歴史は伝えている。 終戦とは戦闘行為の終結に過ぎず、戦禍は終わらないのだと。 ジョンは、そのことを、「想像」できていただろうか。
酒井 聡平(北海道新聞記者)