モネの『睡蓮』と国立西洋美術館―“共演”を実現させたフランスの政治家と日本の実業家
松方の夢がかなった時
「松方コレクション」の蒐集で松方の協力者であった矢代幸雄が旧知であった首相の吉田茂から、箱根の別荘へ呼び出されたのは、戦後もまだ連合国の占領下にあったころである。 「君も尽力した友人の松方さんのコレクションをフランスから取り戻したいんだ」 矢代が友人の松本重治や松方三郎らと、戦後フランスに没収された「松方コレクション」の現状と帰趨を調べていること知っての相談である。 「松方コレクション」を日本に送れば巨額の奢侈税が課せられることから、松方は親しい友人であるレオンス・ベネディットが館長を務めるパリのロダン美術館にコレクションの大半の保管を委託したままだった。それが第二次世界大戦の敗戦によって暗転した。 戦勝国であるフランスがコレクションを「敵国資産」として没収したからである。 吉田茂はこの「返還」をいくつかのルートを通して実現させたいといった。 その結果、奏功した作戦の一つは1951年に結ばれたサンフランシスコ講和条約の調印に際し、吉田がフランスの外相ロベール・シューマンに返還を要請し、「同情を以って対処したい」という回答を引き出したことである。これを受けて矢代はパリで駐フランス大使の萩原徹らとフランス外務省当局者らとの交渉にのぞみ、「返還」への道筋をつけた。 もちろん「返還」が一筋縄で進んだわけではない。フランス側はコレクションのなかでゴッホの『アルルの寝室』など評価の高い3点を返還から除外したうえで、「フランスの文化財を展示するため専用の美術館で保管展示を行う」などの条件をつけた。 占領体制を脱したばかりの日本は厳しい国家財政のもとで、コレクションの受け皿となる「専用の美術館」の建設を決めて、フランスの建築家、ル・コルビジュエに建築設計を依頼し、1959年に「国立西洋美術館」が完成、公開された。 戦前に大政翼賛会の推薦議員であったことから戦後、公職追放の身分にあった松方はコレクションを日本に受け入れる器となったこの美術館を見ることもなく。10年ほど前に他界している。しかし、彼が夢みた「共楽美術館」の理想は、この新たな器にようやく生きたというべきだろう。 あの日、緑滴るジヴェルニーにモネを訪ねて松方が手に入れた『睡蓮』が、新たな美術館のその日の展示を飾っていたことはいうまでもない。 政治家クレマンソーはパリの「オランジュリー美術館」に楕円型の展示室を設けてモネの『睡蓮』の連作をめぐらせた。戦争をはさんでフランスから返還された実業家松方幸次郎のコレクションはル・コルビジュエが設計した東京の「国立西洋美術館」という場で蘇った。 ジヴェルニーの自然にモネが見出したジャポニスムの饗宴は、日本とフランスの二人のパトロンによってその安住の地を得たというべきだろうか。
柴崎信三